クリミア戦争への投入と、露呈した問題
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「エンフィールド銃」の記事における「クリミア戦争への投入と、露呈した問題」の解説
1853年頃、ロイヤル・スモール・アームズ・ファクトリーは迅速かつ大量にエンフィールド銃を生産できなかったため、バーミンガムの請負業者に22,500のエンフィールド銃を生産するように注文した。しかし、一週間周期で1000丁のエンフィールド銃を作るよう頼まれていたものの、請負業者は一週間周期で400丁しか生産しなかったため、契約をした1854年の2月21日から一年以上経った1855年の3月の終わり頃に全てのエンフィールド銃の搬送が終了した。その結果、アラマの戦い、バラクラヴァの戦い、インカーマンの戦い、セヴァストポリ包囲戦など、クリミア戦争中の戦いで大きく活躍する事は無かった。 そして、鉱山から弾丸の原料である鉛を採掘して、それを弾丸に加工し、弾薬包に内蔵するするまでの過程と、弾薬包を帆船や蒸気船で、ロンドンのテムズ川からクリミア半島のバラクラヴァまで輸送するまでの過程にとても時間がかかった事や、1854年から1855年までの冬の間、クリミア戦争の道は泥だらけになっており、弾薬包を運べる動物は泥に沈んで死亡してしまったため、兵士に弾薬包を運ばせた事から、エンフィールド弾薬包はクリミア半島に届くまでに長い時間をかけた。 1854年から1855年の間の極寒の冬の後、エンフィールド銃は迅速にクリミア戦争の戦地であるクリミア半島に届けられた。最初は、第一大隊ライフル連隊(英:1st battalion rifle brigade)が、1855年の2月24日にバラクラヴァで1851年型ライフルマスケットからエンフィールド銃に交換した。同年の夏には通常の歩兵連隊がエンフィールド銃を武装するが、すぐに戦闘に送られたため、エンフィールド銃の扱い方を練習することがあまり出来なかった。そして不幸な事に、このクリミア戦争でエンフィールド銃に二つの問題が露呈してしまった。 一つ目は弾薬包に起こった問題であった。 兵士には、60発弾薬包が与えられ、50発は胴乱に、10発は兵士のベルトに装着されているポーチに入れられた。そのため、銃の装填時にポーチから弾薬包を取り出して装填し、ポーチ内の弾薬包が無くなった時に、胴乱から10発分を取り出してポーチに入れるという動作を行った。この一連の動作は、イギリスで行うトレーニングでは非常に良かったが、劣悪な環境である戦場の最前線(セヴァストポリ)では、天候や雑な扱いによって、品質にバラつきが出てしまった弾薬包が届き、品質の悪い弾薬包はバラバラに分解し、火薬が漏れ出したため、この動作は維持されなかった。 他にも、戦場ではエンフィールド銃が数発の射撃でファウリングを起こしたため、多くの苦情が寄せられたが、銃や弾薬包の問題ではなく、「兵士のケアレスミスによって、銃身が錆びたり、弾薬包が汚れたりしてしまった」と判断されてしまった。 この様な問題の原因は、クリミア半島の天候やそこでの弾薬包の雑な扱いによるものであったが、根本的な原因はエンフィールド弾薬包にあった。エンフィールド弾薬包の装填をよりし易くするために、イギリスのウーリッジにある王立研究所(英:Royal Arsenal)によって、弾薬包紙のサイズが収縮され、弾薬包の厚さが紙一枚分になるようにし、紙の生地も変更されていたが、この変更が弾薬包の火薬漏れや、弾薬包内へのグリースの染み込みなどの問題を引き起こした。 この問題を解決するために、イギリスのハイス(英:Hythe, Kent)にあるマスケトリー学校(英:Small Arms School Corps)の射撃教官であるチャールズ・クローフォード・ヘイ大佐(以降、「ヘイ大佐」と呼ぶ。)は、弾薬包紙の長さを延長し、弾薬包の先端が紙二枚分の厚さで捻られるようにして火薬の漏れを防いだ。この弾薬包は1855年に採用され、1859年まで使用された。 二つ目の問題はプリチェット弾に発生しており、こちらの方がより深刻であった。 プリチェット弾の問題は、1855年春に王立研究所(英:Royal Arsenal)で発生していたが、この問題は、ハイス(英:Hythe, Kent)でのエンフィールド銃と後装式ライフルとの比較テストで初めて発見された。1855年4月13日、トライアルで、エンフィールド銃の精度がとても粗かった事が判明した。そこで、弾薬包の直径を測ってみたところ、基本の直径より小さかった。プリチェット弾のサイズが、基本の直径である.568口径より小さかったのは、王立研究所(英:Royal Arsenal)がクリミア戦争のために、プリチェット弾を24時間ずっと製造し続けていた事が根本的な原因にあった。 王立研究所(英:Royal Arsenal)にあるアンダーソン弾丸製造機は、プリチェット弾を24時間圧縮製造(英:Swaging)し続けていたため、ダイス が擦り減り、大きくなってしまった事で、直径が.568口径より大きい弾丸を製造してしまった。もし、.568口径より直径の大きいプリチェット弾が弾薬包紙に巻かれると、エンフィールド銃の口径である.577口径より直径が大きくなってしまうため、装填がとても困難になるか、不可能になってしまった。そのため、それらの弾丸は製造された場合、捨てられた。 しかし、クリミア戦争によって、軍需品の需要が高まり、より多くの弾丸を迅速に生産するように求められたが、アンダーソン弾丸製造機の ダイス は、手作りで出来ており、ダイス を作る職人は、ダイス を十分に迅速に作ることはできなかった。この対策として、ダイス の直径を.568口径より小さくし、ダイス が擦り減って大きくなるのを遅らせたが、これはつまり、ダイス が新品の状態だと、.565口径や、.566口径のプリチェット弾を製造してしまった恐れがある事を意味した。しかし、王立研究所(英:Royal Arsenal)は、プリチェット弾の精度は、0.002~0.003インチ程度の弾丸の直径収縮によって損なわれないだろうと考えてしまった。 しかし、1855年5月5日、1854年製と1855年製のプリチェット弾を集め、同年5月6日にテストを行った所、このテストで、プリチェット弾はアンダーソン弾丸製造機から製造された時からすでに問題がある事が判明された。弾丸は、上記のように、基本の直径である.568口径で製造された品質の良いものと、直径が基準の.568口径から0.002、0.003インチ小さく製造された品質の悪いものが混同しており、これによりそれぞれの兵士に与えられた弾薬の性能にばらつきが見られるようになった。 バーミンガムなどの請負業者は、銃身の口径を基準の.577口径から最大0.003インチまで大きく製造できる許容誤差があったが、弾丸が、基準の.568口径から0.002インチ大きく、または小さく製造された場合、装填が不可能になったり、射撃の精度が悪くなったりした。基準の.568口径で製造されたプリチェット弾の、600ヤード先での性能指数は3フィート(0.91メートル)、射撃に最適な環境であれば、性能指数は2フィート(0.61メートル)以下になったが、プリチェット弾の直径が基準より0.001~2インチほど小さい場合、プリチェット弾は最大でも0.003~4インチまでしか拡張しないため、例えば、銃身の口径が.58口径のエンフィールド銃に、.566口径のプリチェット弾を、0.009インチの厚さの弾薬包紙で包んで装填した場合でも、プリチェット弾は.576口径までしか拡張しないため、銃身口径に0.001インチ分足りず、ライフリングに十分に吻合しない。そのため、精度や、射程の低下、ファウリングを起こし、 劣悪な射撃を発揮してしまった。当時、銃身の口径は最大0.003インチ、弾丸は0.001インチまでの許容誤差がある条件下で製造を行なっていたが、上記の様な問題から、この条件で製造を続ける事は困難であった。 数十発ほどの正確に測定された.568口径のプリチェット弾を、弾薬包に内蔵してハイス(英:Hythe, Kent)で射撃を行った。600ヤード先の性能指数は2.86フィート(0.87メートル)とかなり良好で、このテストの結果が、弾薬包の問題が、弾丸の直径の収縮によって起こるものだという証拠になった。しかし、「多くの弾薬包が良いものである可能性が高いが、それの良し悪しを区別したり分別したりする事が出来ないため、(そのような状況下で)弾薬包は軍役に適していない」と報告された。 この問題の対策として、ヘイ大佐は、プリチェット弾をミニエー弾のように鉄製カップを挿入できるように改良するという提案を行った。これは、鉄製カップの圧入による大きな拡張によって、基準の直径から0.002、0.003インチほど小さい状態で製造された弾丸に起こるライフリングへの不十分な吻合を防ぐというものだった。これはつまり、プリチェット弾の使用を停止し、鉄製カップを挿入した「エンフィールド弾」採用するという事であった。 この提案によって、プリチェット弾は、鉄製カップを挿入できるように空洞が大型化され、空洞を大きくした事で弾丸の重量が変動してしまうのを防ぐため、全長が0.96インチから1.05インチまで延長された。この様な改造を加えて、エンフィールド弾は開発された。 鉄製カップを挿入したエンフィールド弾は、1855年5月12日にすぐさまテストされ、1855年5月17日には、エンフィールド弾の性能が非常に良い事が報告された。鉄製カップは、形状が半球型であったが、テストのために至急で作られたため、不完全な形状であった。しかし、基準の直径で製造されていないプリチェット弾や、そうでなかったプリチェット弾よりも、性能が良かった。 1855年の5月中には、イギリスのウーリッジの王立研究所(英:Royal Arsenal)で、指貫型鉄製カップを挿入した.568口径のエンフィールド弾の製造が開始された。指貫型鉄製カップは5,000万個ほどをロンドンの技術者兼機械工であったジョン・グリーンフィールドに生産するように注文した。エンフィールド弾は、すぐさまクリミア半島に届けられ、セヴァストポリ包囲戦で使用された。現代では、これらの弾丸は、セヴァストポリで鉄製カップが挿入された状態で発掘されることがある。 このエンフィールド弾の採用と使用によって、プリチェット弾の軍事使用は完全に終了した。プリチェット弾は、例えば、戦争などが起こらない様な時期では、許容誤差などがかなり小さい条件で揃い、基準の直径で生産を行える。そのため、同じく基準の直径で製造されたエンフィールド銃の銃身に、しっかりと装填され、発射時には、拡張して銃身のライフリングに必ず吻合した。そうしてプリチェット弾の高い射撃精度が恐ろしく発揮されるが、戦争によって高まる需要と、大量生産により、保持できずに大きくなってしまう許容誤差で、プリチェット弾は、基準の直径より大きい、又は小さいサイズで生産されてしまい、弾丸を弾薬包紙に巻いても、直径が.572インチや、.573インチにしかならず、プリチェット弾は0.004インチ以上は拡張ができないので、大きくなった許容誤差の条件下で生産された.58口径のエンフィールド銃などで射撃されると、ライフルリングに十分に吻合せず、かなり性能の悪い弾丸へとなってしまった。つまり、当時の工作精度と技術が、プリチェット弾を大量生産するには不十分であったと言える。
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