クリミア戦争への投入と、露呈した問題とは? わかりやすく解説

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クリミア戦争への投入と、露呈した問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:54 UTC 版)

エンフィールド銃」の記事における「クリミア戦争への投入と、露呈した問題」の解説

1853年頃、ロイヤル・スモール・アームズ・ファクトリー迅速かつ大量にエンフィールド銃生産できなかったため、バーミンガム請負業者22,500エンフィールド銃生産するように注文した。しかし、一週間周期1000丁のエンフィールド銃作るよう頼まれいたものの、請負業者一週間周期400丁しか生産しなかったため、契約をした1854年2月21日から一年以上経った1855年3月終わり頃に全てのエンフィールド銃搬送終了したその結果アラマ戦いバラクラヴァの戦い、インカーマンの戦いセヴァストポリ包囲戦など、クリミア戦争中の戦いで大きく活躍する事は無かった。 そして、鉱山から弾丸原料である鉛を採掘して、それを弾丸加工し弾薬包に内蔵するするまでの過程と、弾薬包を帆船蒸気船で、ロンドンテムズ川からクリミア半島バラクラヴァまで輸送するまでの過程にとても時間かかった事や、1854年から1855年までの冬の間、クリミア戦争の道は泥だらけになっており、弾薬包を運べ動物は泥に沈んで死亡してしまったため、兵士弾薬包を運ばせた事から、エンフィールド弾薬包はクリミア半島に届くまでに長い時間をかけた。 1854年から1855年の間の極寒の冬の後、エンフィールド銃迅速にクリミア戦争戦地であるクリミア半島届けられた。最初は、第一大隊ライフル連隊(英:1st battalion rifle brigade)が、1855年2月24日バラクラヴァ1851年ライフルマスケットからエンフィールド銃交換した同年の夏には通常の歩兵連隊エンフィールド銃武装するが、すぐに戦闘送られたため、エンフィールド銃扱い方練習することがあまり出来なかった。そして不幸な事に、このクリミア戦争エンフィールド銃二つ問題露呈してしまった。 一つ目弾薬包に起こった問題であった兵士には、60弾薬包が与えられ50発は胴乱に、10発は兵士ベルト装着されているポーチ入れられた。そのため、銃の装填時にポーチから弾薬包を取り出して装填しポーチ内の弾薬包が無くなった時に胴乱から10発分を取り出してポーチ入れるという動作行った。この一連の動作は、イギリスで行うトレーニングでは非常に良かったが、劣悪な環境である戦場最前線(セヴァストポリ)では、天候雑な扱いによって、品質バラつきが出てしまった弾薬包が届き品質の悪い弾薬包はバラバラ分解し火薬漏れ出したため、この動作維持されなかった。 他にも、戦場ではエンフィールド銃が数発の射撃ファウリング起こしたため、多く苦情寄せられたが、銃や弾薬包の問題ではなく、「兵士ケアレスミスによって、銃身錆びたり、弾薬包が汚れたりしてしまった」と判断されてしまった。 この様問題の原因は、クリミア半島天候やそこでの弾薬包の雑な扱いよるものであったが、根本的な原因エンフィールド弾薬にあったエンフィールド弾薬包の装填をよりし易くするために、イギリスウーリッジにある王立研究所(英:Royal Arsenal)によって、弾薬包紙サイズ収縮され弾薬包の厚さが紙一枚分になるようにし、紙の生地変更されていたが、この変更弾薬包の火薬漏れや、弾薬包内へのグリース染み込みなどの問題引き起こした。 この問題解決するために、イギリスハイス(英:Hythe, Kent)にあるマスケトリー学校(英:Small Arms School Corps)の射撃教官であるチャールズ・クローフォード・ヘイ大佐(以降、「ヘイ大佐」と呼ぶ。)は、弾薬包紙長さ延長し弾薬包の先端が紙二枚分の厚さで捻られるようにして火薬漏れ防いだ。この弾薬包は1855年採用され1859年まで使用された。 二つ目問題プリチェット弾に発生しており、こちらの方がより深刻であったプリチェット弾の問題は、1855年春に王立研究所(英:Royal Arsenal)で発生していたが、この問題は、ハイス(英:Hythe, Kent)でのエンフィールド銃後装式ライフルとの比較テスト初め発見された。1855年4月13日トライアルで、エンフィールド銃精度がとても粗かった事が判明した。そこで、弾薬包の直径を測ってみたところ基本直径より小さかったプリチェット弾のサイズが、基本直径である.568口径より小さかったのは、王立研究所(英:Royal Arsenal)がクリミア戦争のために、プリチェット弾を24時間ずっと製造し続けていた事が根本的な原因にあった王立研究所(英:Royal Arsenal)にあるアンダーソン弾丸製造機は、プリチェット弾を24時間圧縮製造(英:Swaging)し続けていたため、ダイス擦り減り大きくなってしまった事で、直径が.568口径より大きい弾丸製造してしまった。もし、.568口径より直径大きプリチェット弾が弾薬包紙巻かれると、エンフィールド銃口径である.577口径より直径大きくなってしまうため、装填がとても困難になるか、不可能になってしまった。そのため、それらの弾丸製造され場合捨てられた。 しかし、クリミア戦争によって、軍需品需要高まり、より多く弾丸迅速に生産するように求められたが、アンダーソン弾丸製造機ダイス は、手作り出来ており、ダイス作る職人は、ダイス十分に迅速に作ることはできなかった。この対策として、ダイス直径を.568口径より小さくし、ダイス擦り減って大きくなるのを遅らせたが、これはつまり、ダイス新品の状態だと、.565口径や、.566口径プリチェット弾を製造してしまった恐れがある事を意味した。しかし、王立研究所(英:Royal Arsenal)は、プリチェット弾の精度は、0.002~0.003インチ程度弾丸直径収縮によって損なわれないだろうと考えてしまった。 しかし、1855年5月5日1854年製と1855年製のプリチェット弾を集め同年5月6日テスト行った所、このテストで、プリチェット弾はアンダーソン弾丸製造機から製造された時からすで問題がある事が判明された。弾丸は、上記のように、基本直径である.568口径製造され品質良いものと、直径基準の.568口径から0.002、0.003インチ小さく製造され品質の悪いものが混同しており、これによりそれぞれの兵士与えられ弾薬性能ばらつき見られるようになったバーミンガムなどの請負業者は、銃身口径基準の.577口径から最大0.003インチまで大きく製造できる許容誤差があったが、弾丸が、基準の.568口径から0.002インチ大きく、または小さく製造され場合装填不可能になったり、射撃精度悪くなったりした。基準の.568口径製造されプリチェット弾の、600ヤード先での性能指数は3フィート(0.91メートル)、射撃最適な環境であれば性能指数は2フィート(0.61メートル)以下になったが、プリチェット弾の直径基準より0.001~2インチほど小さ場合プリチェット弾は最大でも0.003~4インチまでしか拡張しないため、例えば、銃身口径が.58口径エンフィールド銃に、.566口径プリチェット弾を、0.009インチ厚さ弾薬包紙包んで装填した場合でも、プリチェット弾は.576口径までしか拡張しないため、銃身口径に0.001インチ分足りず、ライフリング十分に吻合しない。そのため、精度や、射程低下ファウリング起こし劣悪な射撃発揮してしまった。当時銃身口径最大0.003インチ弾丸は0.001インチまでの許容誤差がある条件下で製造行なっていたが、上記の様な問題から、この条件製造続ける事は困難であった数十発ほどの正確に測定された.568口径プリチェット弾を、弾薬包に内蔵してハイス(英:Hythe, Kent)で射撃行った600ヤード先の性能指数は2.86フィート(0.87メートル)とかなり良好で、このテスト結果が、弾薬包の問題が、弾丸直径収縮によって起こるものだという証拠になった。しかし、「多く弾薬包が良いのである可能性が高いが、それの良し悪し区別した分別したりする事が出来ないため、(そのような状況下で)弾薬包は軍役適していない」と報告された。 この問題対策として、ヘイ大佐は、プリチェット弾をミニエー弾のように鉄製カップ挿入できるように改良するという提案行った。これは、鉄製カップ圧入による大きな拡張によって、基準直径から0.002、0.003インチほど小さい状態で製造され弾丸に起こるライフリングへの不十分な吻合を防ぐというものだった。これはつまり、プリチェット弾の使用停止し鉄製カップ挿入したエンフィールド弾」採用するという事であった。 この提案によって、プリチェット弾は、鉄製カップ挿入できるように空洞大型化され、空洞大きくした事で弾丸重量変動してしまうのを防ぐため、全長が0.96インチから1.05インチまで延長された。この様改造加えてエンフィールド弾は開発された。 鉄製カップ挿入したエンフィールド弾は、1855年5月12日すぐさまテストされ1855年5月17日には、エンフィールド弾の性能が非常に良い事が報告された。鉄製カップは、形状半球であったが、テストのために至急作られたため、不完全な形状であった。しかし、基準直径製造されていないプリチェット弾や、そうでなかったプリチェット弾よりも、性能良かった1855年5月中にはイギリスウーリッジ王立研究所(英:Royal Arsenal)で、指貫鉄製カップ挿入した.568口径エンフィールド弾の製造開始された。指貫鉄製カップは5,000個ほどをロンドン技術者機械工であったジョン・グリーンフィールドに生産するように注文したエンフィールド弾は、すぐさまクリミア半島届けられセヴァストポリ包囲戦使用された。現代では、これらの弾丸は、セヴァストポリ鉄製カップ挿入された状態で発掘されることがある。 このエンフィールド弾の採用使用によって、プリチェット弾の軍事使用は完全に終了したプリチェット弾は、例えば、戦争などが起こらない様な時期では、許容誤差などがかなり小さ条件揃い基準直径生産行える。そのため、同じく基準直径製造されエンフィールド銃銃身に、しっかりと装填され発射時には拡張して銃身ライフリングに必ず吻合した。そうしてプリチェット弾の高い射撃精度恐ろしく発揮されるが、戦争によって高まる需要と、大量生産により、保持できずに大きくなってしまう許容誤差で、プリチェット弾は、基準直径より大きい、又は小さサイズ生産されてしまい、弾丸弾薬包紙巻いても、直径が.572インチや、.573インチにしかならず、プリチェット弾は0.004インチ以上は拡張できないので、大きくなった許容誤差条件下で生産された.58口径エンフィールド銃などで射撃されると、ライフルリングに十分に吻合せず、かなり性能の悪い弾丸となってしまった。つまり、当時工作精度技術が、プリチェット弾を大量生産するには不十分であったと言える

※この「クリミア戦争への投入と、露呈した問題」の解説は、「エンフィールド銃」の解説の一部です。
「クリミア戦争への投入と、露呈した問題」を含む「エンフィールド銃」の記事については、「エンフィールド銃」の概要を参照ください。

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