元豊への改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:27 UTC 版)
元豊と改元されると、改革は神宗が主導することで断続的に継続した(元豊の改革)。内部分裂した新法派も、神宗が直接統治を行ったことや、蔡確という実務官僚が登場してきたことにより、意見の集約が進むこととなった。神宗は既存の新法に加えて、改革により発生した財政的な余裕を活用した政策を実施していく。国内政府をより効率的に動かせるために官僚の員数を大幅に削減し、また朝廷による官僚管理も進められた。さらに青苗法や市易法などを一層改善し、民間経済に朝廷の影響力を強める施策がとられた。また王安石との相違点としては、軍事方面に注力したことが挙げられる。 元豊時代の政策は、神宗独自のものであると捉えられることがあるが、軍事面以外の政策は基本的に王安石の政策と類似したものであり、この時期の改革は新法を実情に合わせて修正したものである。そして神宗治世後半には新法が全国に適用され、北宋の全盛期を迎えることとなった。国内の改革に成功した神宗は、西夏への侵攻を計画する。しかしこの軍事行動は失敗に終わっている。 西夏との敗北を期に健康を害した神宗は、元豊8年(1085年)に38歳で崩御する。故郷で新法改革の進展を見ていた王安石は、神宗崩御の知らせを受けるやそのまま病床に就き、旧法派の宣仁太后が政権を掌握して新法を廃止したことを知り、そのまま病死した。神宗の死を境に、宋は急速に衰退していくこととなった。
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