元豊以前とは? わかりやすく解説

元豊以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)

北宋」の記事における「元豊以前」の解説

宋初からの元豊の改革までの官制は唐末から五代にかけて形成されていたいわゆる使職体制受け継いでいる。唐の律令体制に於いては極めて細密かつ完成され官制整備されていたが、唐の玄宗以降急激な社会の変化に対して対応できず、実態との乖離進んでいた。そこで実態即するために律令にて定められていない官(令外官)の使職が置かれ律令の官は形骸のみを残し実権は使職に移った。 唐滅亡後五代に於いて新たな官が色々と付け加えられ、宋が成立した後も太祖太宗成立まもない国家混乱することを恐れ節度使権限を削るなど不可欠な所を修正はしたが根本的体系的な官制作りには手を出さなかった。それに加えて寄禄官や職(館職)といった実際職掌示さない職の号があるために宋初の官制歴代でも最も解りにくいといわれる中書門下民政司る長官同中書門下平章事略して同平章事。2ないし3名)。同中書門下平章事助け参知政事(2名)。主に高級官僚人事を行う。 枢密院軍政司る長官枢密使副長官は副枢密使(又は知枢密院事・同知枢密院事)であり、その下に僉書枢密院事・同僉書枢密院事などの役職がある。 このうち同中書門下平章事宰相参知政事枢密使・副枢密使(知枢密院事・同知枢密院事)は執政呼ばれ合わせて宰執と呼ばれる数人の宰執が皇帝前にして合議制政策決定する。つまり宰相といえども議論の場の中の一人過ぎず権臣皇帝の座を脅かされることを嫌った太祖措置一つである。 これ以外で重要な部署には以下のようなものがある。 三司財政司る唐制戸部唐代設置された使職の塩部・度支部が合体して出来たのである長官三司使・各部ごとに三司副使一人判官三人が付く。 翰林学士皇帝命令詔勅として文章化する役職。宋になって詔勅の数が増えたことから重要でないものを取り扱う知制誥新設された。翰林学士は宰執へのエリートコースとされた。 御史台監察司る唐制から引き継いだものの中で実際職掌維持している稀有部署長官御史中丞大理寺・審刑院刑罰司る詳しくは#司法の節を参照。 唐の三省・六部九寺五監役職全てその名を残している。しかしこれらには実際職掌無く、単に官位俸禄を示すものである。これを寄禄官(官・本官などとも)と言い、これに対して実際職掌差遣という。またこれとは別に職(館職)がある。館職は文章学問秀でたに対して試験行って任命される差遣一種で、これを帯びた者は昇進速度格段に早くなった。

※この「元豊以前」の解説は、「北宋」の解説の一部です。
「元豊以前」を含む「北宋」の記事については、「北宋」の概要を参照ください。

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