纏足の歴史と施術方法など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:17 UTC 版)
一説では南斉から纏足が行われたとも言われているが、一般には南唐の李煜が足の細い女性を好んだことから始まったとする説も有力である。その南唐を滅ぼし、一応の全国統一を果たした北宋以降、徐々に普及が始まった。元末明初に記された『輟耕録』(てっこうろく)の巻10に、「如熙寧元豊以前人猶為者少。近年則人人相効、以不為者為恥也」(訳:「熙寧(きねい、北宋神宗の年号、1068年 - 1077年)、元豊(げんぽう、同じく北宋神宗の年号、1078年 - 1085年)以前は少なかったが、近年では人々が互いに(纏足の習慣を)真似しあうようになり、そうでないのを恥とする」)と書かれている。その他の資料や、アラブ人や西洋人の見聞録などから、北宋より流行しだし、元末明初に盛んになったようである。流行しだした頃は、漢民族にとっては異民族の侵入などで民族主義的な儒教が発達した時期でもあった。北宋の后が始めたとの説があるが、華南よりは華北によりその傾向があり、次第に農村部にまで拡大したようである。少数民族や女真族(満州族)にはその傾向がなかったものの、まれに見られた。 女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。 女の子が3歳から4歳になると木綿の布で足を縛り、発達を抑えるようになる。発熱するため、施術は秋に行われるのが多かった。親指を除く4本の指は内側に曲がり夜も寝られないほどの苦痛を伴いながらも、縛りなおすときを除き、ほとんど縛りっぱなしで決して親はそれを緩めようとはせず、足のサイズは10cm前後が金蓮と呼ばれた。第1段階では親指以外の4本の指を内側に曲げ、第2段階で足の甲を前に伸ばさず縦に曲げていく。約2年かけるので、足のやわらかい幼少の頃に変形させるのである。その後も縛り続け、3日に1度消毒することなどが生涯にわたって行われ、その形状はハイヒールによく似た形となった。 纏足の流行の理由には、足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした、など多くのことが考えられる。しかし、いずれも決定的にこれと言えるほどの理由ではなく、やはり習慣の一つとして続けられていたと言えよう。 纏足で走行不能となったことで、災害時には男性より死亡率が高かった。また、早めに夫をなくし困難の中で子育てに励む母親の苦労は大変なものだったという。
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