港市国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/17 19:03 UTC 版)
港市国家(こうしこっか)は、近代以前の東南アジアにおいて出現した、港市が中心となって周辺海域を支配し、領域や人民よりも交易のネットワークに基盤を置く国家である。陸上交通に困難さをともなう地域においては特に、海上交通の要所に貿易港と集散地を兼ねた港市が形成され、そのなかでも外部の文明とのつながりの強い港市が中心となって周辺海域を支配する港市国家が成立した[1]。「港市国家」の用語は、当初、和田久徳がマラッカ王国について構想した概念であったが、今日では交易中心の国家全般を指すようになっている[1]。
注釈
- ^ 扶南の建国者カウンディンヤは、『梁書』では「混塡」の漢字があてられているが、4世紀末のカウンディヤは「僑陳如」の漢字表記がなされている。永積(2001)p.38,p.40
- ^ 中国の史書では、「象林邑」と称すべきところを「林邑」という省略形で記されている。永積(1977)pp.41
- ^ 西アジアの船は広州や泉州など中国南部の港をおとずれ、これら港町にはアラブ人やペルシャ人の居留地があったという。
- ^ アラブ人の旅行記には、シュリーヴィジャヤは「ザーパク」の名で記されている。永積(1977)p.47
- ^ フォールコンの妻はマリア・ギオマール・デ・ピーニャ(ターオ・トーンキープマー)という日系人であった。
出典
- ^ a b c d 鈴木(1998)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 北川(2009)pp.40-43
- ^ a b c d e 永積(1977)pp.38-43
- ^ a b c 永積(1977)pp.43-44
- ^ a b c 永積(1977)pp.47-50
- ^ 『アブー・ザイド・アッシーラーフィー』 - コトバンク
- ^ 『アブー・ザイド』 - コトバンク
- ^ a b 永積(1977)pp.83-86
- ^ a b 永積(1977)pp.80-82
- ^ a b c 永積(1977)pp.118-120
- ^ 篠原陽一「3・2・1 東南アジアの港市とヨーロッパの進出」(海上交易の世界と歴史)
- ^ a b 『岩波講座東南アジアの歴史3』(2001)
- ^ a b c 永積(1977)pp.87-88
- ^ 中村(1991)pp.192-200
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- ^ 中原(2004)
- ^ E. M. Jacobs(2006) P.207
- ^ a b 弘末(2004)pp.137-139
- ^ a b 弘末(2004)pp.31-32
- ^ B.W.Andaya(1984) pp.101-102
- ^ 坂井(2002)
- ^ 鈴木(2004)
- ^ a b 別枝(2004)
- ^ a b c d e f 篠原陽一「続3・2・1 東南アジアの港市とヨーロッパの進出」(海上交易の世界と歴史)
- ^ a b c 弘末(2004)pp.65-70
- ^ 弘末(2004)pp.65-91
- ^ 弘末(2004)pp.91-96
- 1 港市国家とは
- 2 港市国家の概要
- 3 港市国家と後背地
- 4 脚注
- 5 外部リンク
- 港市国家のページへのリンク