シュリーヴィジャヤ王国とマジャパヒト王国
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「港市国家」の記事における「シュリーヴィジャヤ王国とマジャパヒト王国」の解説
太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となったマラッカ海峡の港市を基盤としたのが、7世紀にスマトラ島南部に興ったシュリーヴィジャヤ王国である。唐の義浄は、インドへの留学の前に5ヶ月、留学を終えてインドからの帰途には10年ものあいだシュリーヴィジャヤに滞留し、サンスクリット語の仏典の筆写とその漢訳をおこなった。帰国後に彼が著した『南海寄帰内法伝(中国語版)』には、シュリーヴィジャヤには1,000名あまりの仏僧がいて、仏典研究のレベルもインドのそれにおとらないと記している。義浄は復路、クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在のパレンバン(インドネシア・南スマトラ州)のあたりにあった。シュリーヴィジャヤは、一時、ジャワ島を本拠とするシャイレーンドラ朝の勢力におされて衰退したが、政争に敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王としてむかえ、勢力を盛り返した。 唐が衰えると、陸上の「オアシスの道」「草原の道」の通行は必ずしも安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「海の道」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。五代十国を経て宋建国に至る10世紀の前半から中葉にかけては、イブヌル・ファキーフやアブー・ザイド(フランス語版)などアラブ人の書いた旅行記にシュリーヴィジャヤの繁栄が記されている。また、宋代には漢民族もさかんに南海貿易に進出するようになり、周去非『嶺外代答(英語版)』や趙汝适『諸蕃志』など東南アジアに関する優れた書籍もあらわれた。これらによれば、シュリーヴィジャヤは、東はジャワ島、西はアラビア半島や南インドなどの各地から来航する船舶で王国付近の海域を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、王国は水軍を出して攻撃を加えたこと、また、パレンバンの港には鉄の鎖があり、海賊の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している。シュリーヴィジャヤは、やがて、10世紀から11世紀にかけてジャワに本拠を置くクディリ王国やインド南部のチョーラ朝の攻撃を受けたが、これは王国がマラッカ海峡海域の貿易を独占していたためであった。あいつぐ抗争で弱体化したシュリーヴィジャヤは、14世紀にはジャワ島に本拠を置くマジャパヒト王国からの征服を受けた。 マジャパヒト王国は、内陸部の水田農業に基盤を置いて勃興したヒンドゥー教国家であったが、ジャワ島北海岸の港市を支配下に入れたことで大発展が可能になった。ジャワ北岸の商人たちはそれぞれの港市を根拠地に、その頃から需要が増大しつつあったモルッカ諸島の香料をジャワ以外の主要港市に運ぶ中継貿易をになっていた。この王国は、14世紀の一時期、宰相ガジャ・マダによって、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらにカリマンタン島南岸をも支配する広大な海洋帝国を建設した。
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