シュリーヴィジャヤ王国とマジャパヒト王国とは? わかりやすく解説

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シュリーヴィジャヤ王国とマジャパヒト王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 14:51 UTC 版)

港市国家」の記事における「シュリーヴィジャヤ王国とマジャパヒト王国」の解説

太平洋インド洋を結ぶ海上交通要路となったマラッカ海峡港市基盤としたのが、7世紀スマトラ島南部興ったシュリーヴィジャヤ王国である。唐の義浄は、インドへの留学前に5ヶ月留学終えてインドからの帰途には10年ものあいシュリーヴィジャヤ滞留しサンスクリット語仏典筆写とその漢訳おこなった帰国後に彼が著した南海寄帰内法伝中国語版)』には、シュリーヴィジャヤには1,000名あまりの仏僧がいて、仏典研究レベルインドのそれにおとらない記している。義浄復路クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤ首都入ったが、首都現在のパレンバンインドネシア南スマトラ州)のあたりにあったシュリーヴィジャヤは、一時ジャワ島本拠とするシャイレーンドラ朝勢力におされて衰退したが、政争敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王としてむかえ、勢力盛り返した。 唐が衰えると、陸上「オアシスの道」「草原の道」通行は必ずしも安全なものとはいえなくなったが、そのこと逆に海の道」への依存飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤ隆盛拍車をかけることとなった五代十国経て宋建国に至る10世紀前半から中葉にかけては、イブヌル・ファキーフやアブー・ザイド(フランス語版)などアラブ人書いた旅行記シュリーヴィジャヤ繁栄記されている。また、宋代には漢民族さかんに南海貿易進出するようになり、周去非『嶺外代答(英語版)』や趙汝适諸蕃志』など東南アジアに関する優れた書籍あらわれた。これらによればシュリーヴィジャヤは、東はジャワ島、西はアラビア半島南インドなどの各地から来航する船舶王国付近海域利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、王国水軍出して攻撃加えたこと、また、パレンバンの港にはの鎖があり、海賊来航には鎖を閉じ商船来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している。シュリーヴィジャヤは、やがて、10世紀から11世紀にかけてジャワ本拠を置くクディリ王国インド南部チョーラ朝攻撃受けたが、これは王国マラッカ海峡海域貿易独占していたためであったあいつぐ抗争弱体化したシュリーヴィジャヤは、14世紀にはジャワ島本拠を置くマジャパヒト王国からの征服受けたマジャパヒト王国は、内陸部水田農業基盤置いて勃興したヒンドゥー教国家であったが、ジャワ島北海岸の港市支配下入れたことで大発展が可能になった。ジャワ北岸商人たちそれぞれの港市根拠地に、その頃から需要増大しつつあったモルッカ諸島香料ジャワ以外の要港市に運ぶ中継貿易になっていた。この王国は、14世紀一時期宰相ガジャ・マダによって、マレー半島からスマトラ・ジャワ両島、さらにカリマンタン島南岸をも支配する広大な海洋帝国建設した

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