シュリーランガパトナの包囲と降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 14:20 UTC 版)
「第三次マイソール戦争」の記事における「シュリーランガパトナの包囲と降伏」の解説
1792年1月25日、コーンウォリスはイギリス軍2万2000とニザーム軍1万8000を率いて、サヴァンドゥルガからシュリーランガパトナに向けて進撃し、アバークロンビーはマラバール海岸から同地に向かった。 マイソール側はイギリス軍をシュリーランガパトナに近づけぬよう、その行列を妨害し続けたが、進軍を止めることはできなかった。このため、コーンウォリスはバンガロールからの供給を保つため、一連の前哨地を建設しなければならなかった。 2月5日、イギリスおよび同盟軍がシュリーランガパトナの平野前に到着すると、ティプー・スルターンはロケットをシャワーのように浴びせて攻撃した。これはマイソール軍の得意攻撃であった。 その夜、コーンウォリスはこれに対応するため、彼の陣地からマイソール軍に夜襲を仕掛け、幾分混戦が続いたものの、翌6日までにマイソール軍はシュリーランガパトナへと撤退した。同盟軍は包囲網を形成し、シュリーランガパトナを包囲した(シュリーランガパトナ包囲)。 同月12日、アバークロンビーがボンベイ軍とともに到着し、シュリーランガパトナの包囲がきつくなると、ティプー・スルターンはさすがに講和を申し出た。 同月23日、ティプー・スルターンとコーンウォリスは和平交渉を行い、翌24日に和平がマイソール王国とイギリスとの間で結ばれることとなった。
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