シュリーランガパトナへの進撃と断念
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「第三次マイソール戦争」の記事における「シュリーランガパトナへの進撃と断念」の解説
1791年1月29日、コーンウォリスはヴェールールにいたイギリスの主力軍と合流し、その1週間後に西へと向かい、西ガーツ山脈を越えた。これはティプー・スルターンにポンディシェリーを諦めさせ、バンガロールへと急がせた。 また、ティプー・スルターンはいくつかの峠に防衛線を張らせたが、コーンウォリスは見せかけの攻撃に数度あったのち、急に北に曲り、2月21日にムルゲー峠を縦断した。彼は実際にほとんど抵抗に遭わず、3月5日にマイソール側の主要拠点バンガロールの城門に到着した。 これに対し、ティプー・スルターンはバンガロール城を強化して守備隊を強化したが、コーンウォリスが包囲をはじめたとき、自身は主力の軍勢とともにあり、城内の彼らと連絡と取るにとどまった。結局、城は彼の援助なくして戦わなければならず、3月21日に落城した。 コーンウォリスがバンガロール奪取に力を入れたのは、この地をシュリーランガパトナ進撃への拠点にするためであり、同盟軍を刺激するためでもあった。一方、ティプー・スルターンに与えた衝撃も大きかった。 その後、コーンウォリスは補給のキャラヴァンに会うため、そしてニザームの軍勢と合流するために北へと向けた。そして、4月12日にバンガロールからおよそ80マイル(130km)の地点で、テージ・ウント率いるニザーム王国の軍勢と合流した。一方、ハリ・パントはカルヌールに達したのちニザームと協議している間、コーンウォリスがバンガロールを攻略してシュリーランガパトナに向かっていることを知り、イギリス軍に合流するためにカルヌールを離れた。 この間、イギリス軍はシュリーランガパトナを包囲する前にバンガロール周辺の地を少しでも多く獲得しようとした。5月15日にコーンウォリスはカーヴェーリ川を渡河しようとした際、ティプー・スルターンの襲撃を受け、アラケーレーで戦った(アラケーレーの戦い)。結局、マイソール軍はイギリス軍に敗れ、ティプー・スルターンはシュリーランガパトナまで退却せざるを得なかった。 かくして、マイソール王国の首都、カーヴェーリ川の中にあるシュリーランガパトナまで至ったイギリス軍であるが、ここで問題が生じた。シュリーランガパトナがまず非常に難攻不落であったこと、マラーター軍が近くにいなかったこと、マラバールからやってきて合流したアバークロンビー率いるイギリス軍が非常に飢えていたこともあり、包囲ができるのかが疑問となった。また、包囲にあたり、コーンウォリスと前線にいたメドウズは連絡と補給が分断されるのではないかと心配になり始めた。 結局、攻城砲兵にまで損害が出始めたので、シュリーランガパトナの包囲ができるのかコーンウォリスは悩んだ末、同月25日に包囲を断念した。包囲は用意周到な準備が出来てからにすることにして、バンガロールへと引き返した。その3日後、同月28日にハリ・パントに率いられたマラーター軍がイギリス軍と合流した。
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