シュリーランガパトナへの進撃と断念とは? わかりやすく解説

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シュリーランガパトナへの進撃と断念

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 14:20 UTC 版)

第三次マイソール戦争」の記事における「シュリーランガパトナへの進撃と断念」の解説

1791年1月29日コーンウォリスヴェールールにいたイギリス主力軍と合流しその1週間後に西へ向かい西ガーツ山脈越えた。これはティプー・スルターンポンディシェリー諦めさせ、バンガロールへと急がせたまた、ティプー・スルターンはいくつかの峠に防衛線を張らせたが、コーンウォリス見せかけの攻撃数度あったのち、急に北に曲り2月21日にムルゲー峠を縦断した。彼は実際にほとんど抵抗遭わず3月5日マイソール側の主要拠点バンガロール城門到着した。 これに対しティプー・スルターンバンガロール城を強化して守備隊強化したが、コーンウォリス包囲はじめたとき、自身主力軍勢とともにあり、城内の彼らと連絡と取るにとどまった結局、城は彼の援助なくして戦わなければならず、3月21日落城した。 コーンウォリスバンガロール奪取力を入れたのは、この地をシュリーランガパトナ進撃への拠点にするためであり、同盟軍刺激するためでもあった。一方ティプー・スルターン与えた衝撃大きかったその後コーンウォリス補給キャラヴァンに会うため、そしてニザーム軍勢合流するために北へ向けた。そして、4月12日バンガロールからおよそ80マイル(130km)の地点で、テージ・ウント率いニザーム王国軍勢合流した一方、ハリ・パントはカルヌール達したのちニザーム協議している間、コーンウォリスバンガロール攻略しシュリーランガパトナ向かっていることを知りイギリス軍合流するためにカルヌール離れたこの間イギリス軍シュリーランガパトナ包囲する前にバンガロール周辺の地を少しでも多く獲得しようとした。5月15日コーンウォリスカーヴェーリ川渡河ようとした際、ティプー・スルターン襲撃を受け、アラケーレーで戦った(アラケーレーの戦い)。結局マイソール軍はイギリス軍敗れティプー・スルターンシュリーランガパトナまで退却せざるを得なかった。 かくしてマイソール王国首都カーヴェーリ川中にあるシュリーランガパトナまで至ったイギリス軍であるが、ここで問題生じたシュリーランガパトナがまず非常に難攻不落であったこと、マラーター軍が近くにいなかったこと、マラバールからやってきて合流したアバークロンビー率いイギリス軍が非常に飢えていたこともあり、包囲ができるのかが疑問となったまた、包囲にあたりコーンウォリス前線にいたメドウズ連絡補給分断されるではないか心配になり始めた結局攻城砲兵にまで損害出始めたので、シュリーランガパトナ包囲ができるのかコーンウォリス悩んだ末、同月25日包囲断念した包囲用意周到な準備出来てからにすることにして、バンガロールへと引き返したその3日後、同月28日にハリ・パントに率いられマラーター軍がイギリス軍合流した

※この「シュリーランガパトナへの進撃と断念」の解説は、「第三次マイソール戦争」の解説の一部です。
「シュリーランガパトナへの進撃と断念」を含む「第三次マイソール戦争」の記事については、「第三次マイソール戦争」の概要を参照ください。

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