マラッカ陥落後の港市国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 14:51 UTC 版)
「港市国家」の記事における「マラッカ陥落後の港市国家」の解説
マームド・シャーはムラカ(マラッカ)南方のムアル(英語版)に逃れてマラッカ王国の再起をはかったが失敗し、さらにパハンやビンタン島に移って体勢を立て直し、数度にわたってムラカ奪回を試みたが失敗した。マームド・シャーの子息アラウッディン・リアヤト・シャー(英語版)は、マラッカ王室の分流であったパハン王家の協力を得てマレー半島南部のジョホールにジョホール王国を建て、港市国家を再興した。ジョホール王国では、1612年に「ブンダハラ」と称される世襲の宰相によって、マラッカ王国の盛衰を記した歴史書『スジャラ・ムラユ』が整えられている。 ジョホール王国の王(スルタン)は、交易従事者が必要とするすべての施設を提供した。17世紀後半に黄金時代をむかえたジョホールは、スマトラ島の胡椒や金、マレー半島の錫を主な交易品として、外来商人たちを引きつけ、ジョホール王国自身もインド綿布を購入するため、オランダ公認の下でインド東部のベンガル地方や南東部のコロマンデル海岸に船舶を派遣し、さらには中国の南シナ海沿岸に船舶を派遣して交易の振興に努めた。また、香辛料を輸入するため、さかんにマカッサル王国とも交易をおこなった。こうした努力により、中国南部や台湾からの商人、ベトナム・カンボジア・シャムの商人、また、アラブ人、インド人の商人がジョホールの王都に多数逗留し、さらにポルトガル人、イギリス人、デンマーク人らも寄港した。17世紀後半、ジョホールは東西の中継貿易港として、オランダ領マラッカをしのぐ繁栄をきずいている。 一方、スンダ海峡に臨むジャワ島西部の港市バンテンは16世紀から18世紀にかけて栄えた港市で、イスラーム政権バンテン王国の王都として最盛期には10万人前後の人口を擁していたといわれている。文献資料による従来の研究では、バンテンがオランダに屈服した1683年以降は衰退期とみなされてきたが、遺跡から出土する陶磁器片の量は18世紀代のものが圧倒的に多いことが確認されており、遺物の詳細な検討により、この時期のバンテンが、東の華人によるジャンク船の交易ネットワークと西のインド洋イスラーム交易ネットワークの結節点という役割をにない、中国産ないし日本の肥前産の陶磁器の再輸出センターとして繁栄していたことが判明した。現在、今まで蓄積された詳細かつ精緻な陶磁器研究の成果を活用した考古学的研究法が採用されることによって、港市国家の内実や東西交易ネットワーク全体の構造や動態がいっそう明らかになりつつある。 15世紀末に建てられたスマトラ島北部のアチェ王国は、マラッカ陥落後も胡椒と錫の貿易で繁栄した。全盛期は17世紀の前半で、ポルトガル勢力およびジョホール王国とのあいだに「三角戦争」と呼ばれる三者抗争を戦い、オスマン帝国のスレイマン1世の支援を取り付けたことで、一時、両者に対し優位に立った。オランダとジョホールの連合によりマラッカよりポルトガル勢力を駆逐したのちは、両者と友好的な関係を築いた が、1871年、オランダ東インド政庁が1871年のスマトラ条約スマトラ条約(英語版)によってイギリスの干渉を排除すると、1873年、マラッカ海峡の安全確保を名目にアチェ王国の保護領化を企図して王国への侵攻を開始した。これがアチェ戦争であるが、アチェの人々の頑強な抵抗により、この戦争は長期化し、オランダ軍がスマトラ全土を制圧してインドネシア全体の植民化(オランダ領東インド)が完成したのは1912年のことであった。 スラウェシ島(セレベス島)の港市マカッサル(ウジュン・バンダン)は、西のジャワ島やマレー半島と東のモルッカ諸島を結ぶ中継貿易港として、また、マカッサル王国(ゴワ=タッロ王国)の王都として繁栄した。香料産地モルッカ諸島を後背地とするマカッサルは、16世紀における東南アジア島嶼部最大の都市であったといわれる。中小の港市を帰属させたマカッサルの王は、すべての来訪者が商売を行う権利を保障して自由貿易政策を維持した。戦略上の要地であったため、近世にはポルトガル、イギリス、オランダの侵入を受けた。しかし、そのなかでオランダが専売会社を設立する試みをいったんは阻止している。王国の最盛期は17世紀前半から中葉にかけてであり、17世紀後半にはオランダ領となった。なお、スラウェシ島全体がオランダ領東インドに帰属したのは1905年のことであった。
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