マラッカ王国による記録とは? わかりやすく解説

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マラッカ王国による記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:03 UTC 版)

ベトナムのイスラム教」の記事における「マラッカ王国による記録」の解説

マラッカ王国年代記馬来編年史』(Sejarah Melayu, 1612ごろ) によればチャンパ王国占城国)におけるイスラム教信者は、まずヤク王国 Yaq(闍槃国、ベトナム中部ビンディン省フーイエン省にあり、チャンパ諸国中心だったと考えられる)に広がったヤク王国大越黎朝侵略受けて1471年崩壊した。『占皇家編年史』(Sakkarai dak rai patao Cam, 1832ごろ)によれば現在のチャム居住地における信者数は、アグイ小王国 Anguei がヤク王国ジュク王国 Jek)の侵略受けて崩壊しアグイ遺民がパンラン Pa-nrang(ベトナム中部ーニントゥアン省・ビントゥアン省)に移住した1397年以降に、ヤクジュク)からやってきた伝道団の活動により増え始めたイスラム教王権とむすびついて国教化したのはポーロメ治世17世紀半ば考えられるその後チャンパ王国占城国)は大越広南国(ダンチョン王国 Đàng Trong)の侵略受けて1693年にいったん滅亡し2年後に「順城鎮」として再独立した。順城期のチャンパ依然として広範な自治権維持したが、ダンチョン=広南阮氏宗主権のもと、マレー半島などのイスラム勢力との連携は困難となった

※この「マラッカ王国による記録」の解説は、「ベトナムのイスラム教」の解説の一部です。
「マラッカ王国による記録」を含む「ベトナムのイスラム教」の記事については、「ベトナムのイスラム教」の概要を参照ください。

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