「交易の時代」とマラッカ王国
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「港市国家」の記事における「「交易の時代」とマラッカ王国」の解説
15世紀から17世紀にかけての東南アジアは「交易の時代」(大交易時代)と呼ばれる時代に入る。これは、およそ1450年代から1680年代にかけての時期であり、ヨーロッパ中心史観では「大航海時代」「地理上の発見」などと称されてきた時代とも重なっているが、東南アジアに関していえば、実態としては既にある程度一体化されていたアジアの海にヨーロッパ人がおくれて参入しただけのことであった。「交易の時代」を現出させていった契機としては13世紀以降のマラッカ海峡周辺の住民のイスラームへの改宗と15世紀前半の明の鄭和による7次にわたったインド洋大遠征があげられる。 13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している。13世紀末にスマトラ島北端のペルラクに5ヶ月間滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人びとがさかんにイスラームに改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残しており、これが当地の改宗を記録した初出の史料となっている。アラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでのめざましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、インドの文化の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団スーフィーだったことなどが掲げられる。東南アジアのイスラーム化は、マラッカ王の改宗説話に端的に示されるように、大量の移民や軍事的征服によらずして既存の王国全体が王を頂点としてイスラームに改宗したことが特徴的であり、それは諸港市をむすび秩序づける規範ないし紐帯として機能した。そして、14世紀末から15世紀初頭にかけて、マレー人によるムスリム政権としてマレー半島北西部にマラッカ王国が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家をきずいたのである。マラッカ王国は、タイのアユタヤ王朝と対抗するために明に朝貢し、鄭和の西征もこうしたマラッカ王国の動きに対応したものであった。 マラッカ王国の首都であったムラカ(英名マラッカ)には、港務長官が4名もおり、第一長官はインド西海岸のグジャラート州、第二長官は南インド、ベンガル州およびビルマ(ミャンマー)、第三長官は東南アジア島嶼部、第四長官は中国(明)、琉球王国、チャンパをそれぞれ担当地域としていた。ムラカは、商人や船員、通訳、港湾労働者、人や物流を管理する吏員、船乗りや商人の相手をする遊女などでにぎわったのである。 「交易の時代」に入り、貿易船の航路にあたる沿岸諸地域には港市が発達し、人や物産・情報の交流が活発化して諸地域がたがいに緊密に結ばれ、さらにまた、交易のもたらす富が港市の発展を促した。16世紀初頭、ポルトガル人トメ・ピレス(英語版)の『東方諸国記(ポルトガル語版)』は、ムラカの港市は「商品のために作られた都市で、その点では世界中のどの都市よりもすぐれている」と絶賛しており、そこでは、カイロ・メッカ・アデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワやマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などが集まったとし、さらに「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している。 しかし、そのような港市国家の繁栄はヨーロッパ諸国の進出を招くこととなった。ポルトガルによってムラカが占領されたのは1511年のことである。マラッカ王国のスルタン、マームド・シャー(英語版)はポルトガル船隊の15倍の兵力を有していたといわれ、攻防戦は熾烈をきわめたが、最終的に華僑がポルトガル側についたことが勝敗を決したといわれている。
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