「交流元年」と安藤勝己
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:26 UTC 版)
「ライデンリーダー」の記事における「「交流元年」と安藤勝己」の解説
ライデンリーダーの主戦騎手を務めた安藤勝己は、当時笠松では「カラスが鳴かない日はあってもアンカツが勝たない日はない」と言われた絶対的な騎手であった。しかしライデンリーダー騎乗以前の安藤は「勝つことに飽きて」向上心を完全に失い、30代半ばにあって既に調教師への転身を考え始めていた。 しかしライデンリーダーと中央でレースを重ねる中で、安藤は中央の騎手の厳しいマークに発奮し、以後「新人騎手時代に戻ったように」騎乗の研究を重ね、「馬に乗ることがこんなに楽しいものだったのかと再確認した」という。1999年に行われたインタビューの中では「ライデンリーダーという馬と巡り会い、中央のGIに乗ることができて……。馬乗りとして、もう一度頑張ってみようかって気になりました」と語り、2003年には地方競馬出身者として初めて中央競馬の騎手免許を取得。以後JRA賞最高勝率騎手を複数回獲得するなど、中央競馬においてもトップ騎手の一名となった。このインタビューを行ったライターの広見直樹は、「5年、いや、あと3年"開放"が遅れてやってきたとしたら、2000年の安藤勝己は鞭を置いて、笠松の調教師としてスタートを切っていたかも知れない」としている。
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