「交流元年」- 中央競馬への傾倒
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「安藤勝己」の記事における「「交流元年」- 中央競馬への傾倒」の解説
デビュー3年目から笠松におけるリーディングの座を守り続けていた勝己であったが、30歳を過ぎたころから、定石通りにレースを運べば当たり前のように勝つことができるという単調な繰り返しに飽き、騎手としての向上心を失い調教師への転身も視野に入れはじめていた。 そうした最中の1995年、中央競馬と地方競馬間の交流が大幅に拡大されることになり、地方主催で行う中央との交流重賞「ダートグレード競走」の整備や、条件つきではあったものの、地方在籍のままでの中央GI競走への出走が可能となった。「交流元年」と呼ばれたこの年、勝己はマックスフリートも管理した荒川友司厩舎に所属するライデンリーダーと中央の重賞戦線に臨む。かつて中央と笠松で活躍したワカオライデンを父にもつ同馬はデビュー以来連勝を続け、1995年3月、10戦10勝という成績で中央のGII競走・報知杯4歳牝馬特別に出走。中央芝コースのハイペースに苦労しながらも、最後の直線では先行勢を一気に抜き去り、2着に3馬身半差、レースレコードという鮮烈な勝利を挙げた。 詳細は「第29回報知杯4歳牝馬特別」を参照 これで中央牝馬三冠初戦・桜花賞への出走権を得たライデンリーダーは一躍注目の的となり、本番が近づくと笠松には多くのマスコミが詰めかけ、勝己への取材も加熱した。しかし単勝1番人気に支持された桜花賞では、勝己に芝コースでの経験が乏しかったことが仇となり、流れを読みきれず4着という成績に終わる。その後、ライデンリーダーは牝馬三冠の残る二冠、優駿牝馬(オークス)とエリザベス女王杯にも出走したが、それぞれで大敗を喫した。勝己はライデンリーダーについて、牝馬ということもあってオグリキャップのような凄さは感じなかったと述べ、その注目のされ方についても「少し騒がれすぎかなと思っていた」と後に振り返っている。 ライデンリーダーでは中央のGI競走に手が届かなかったものの、勝己はGIでの騎乗を経て騎手としての情熱を取り戻し、新人時代に戻ったように騎乗の研究に再び取り組みはじめた。勝己35歳の時である。また「この馬がクラシックを狙えるのなら、今後も笠松からクラシックを狙える馬が出る」と確信し、そのとき桜花賞における不完全燃焼の内容を繰り返さないため、日本国外にまで赴いて芝コースでの騎乗経験を増やすよう努めるようになった。 1997年からは、地方所属馬が出走できる中央競走枠が大幅に増加。1998年、前年まで11戦0勝、22戦0勝と推移していた勝己の中央成績は90戦7勝と向上した。1999年には勝己が「ジェット機」と評した笠松所属馬・レジェンドハンターによるデイリー杯3歳ステークスを含む455戦55勝という成績を挙げ、この頃より「アンカツ」のニックネームは中央ファンの間にも完全に浸透した。他方、勝己はレジェンドハンターで2着に敗れた中央の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスについて「ライデンリーダーの失敗をまた繰り返してしまった」としている。
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