「交換」への道筋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 22:10 UTC 版)
「ギリシャとトルコの住民交換」の記事における「「交換」への道筋」の解説
複数のソースによれば、住民交換は、多くの人々にとって厄介で危険であったが尊敬される監督者によって実行された。もし住民交換の目的が民族と国民を同じにすることであるなら、それはトルコギリシャ両国によってなされていた。たとえば1906年において、今日のトルコの国民の80%以上がイスラム教徒であった。1927年まで、トルコの人口の2.6%だけが非イスラム教徒であった。住民交換の企画者は、国際連盟により委員に任命されたフリチョフ・ナンセンであった。初代難民高等弁務官としてナンセンはギリシャとトルコと西欧の利益を考慮しつつ、住民交換を提案し監督した。第一次世界大戦後のロシアとその他の難民の再定住の経験で練達の外交官として、このときナンセンは世界大戦で土地を失った人々のための新たな旅券、いわゆる『ナンセン・パスポート』を作成した。 彼は希土戦争の平和的解決を担当するために選ばれた。同戦争は最終的に両国が総て履行する住民交換の最初の段階のひな形を結実させた。これほどの規模の強制的な住民交換は近代に試みられたことはなかったが、1919年のギリシャとブルガリアの住民交換のような、バルカンの先例は利用できた。第一次世界大戦後の民族的緊張を改善するに十分ではないであろうギリシャとトルコ政府による合意ゆえに、住民交換は実行可能な選択肢として推進された。 アンカラ政府の代表によれば「トルコの少数民族の多数の改善は、とりわけあらゆる外国の介入およびあらゆる外部の挑発の排除次第」であると。「これは、住民交換によって最も効果的に達成しうる」。そして「国家の安全のための最善とマイノリティの存在が」住民交換ののちには「国の法律によって、トルコの自由な政策よって、構成員がトルコ市民しての義務から逸脱していないすべてのコミュニティの認識とともに、これらを満たすのである」と。住民交換はまた、バルカン半島での暴力の対応として便利である。「100万を超える食料あるいは避難すべき場所のないトルコ人が、ヨーロッパでもなくアメリカに存在し」、いかなる場合でも「あらゆる関心を持っていたのではなく進んで持とうとしている」。 住民交換は、数ある中で「最もラジカルな救済方法」と同様に、マイノリティ保護の最善の手段に見える。ナンセンは、ローザンヌの交渉のテーブルはエスノナショナリズム、ではなく、「いささかの遅滞のない早急かつ効果的な結論を要する」「問題」だと信じていた。彼は、ギリシャとトルコの難民の問題の経済的要素は最も注意するのに値すると信じていた。「このような住民交換はトルコに直ちにそして最善の条件で、 かつてギリシャ人が放棄した耕作地の開発の継続の必要ある人々を提供することになるだろう。イスラム教徒の市民のギリシャからの出発は、いまは町に収容されていて、ギリシャの各地にいる莫大な数の難民の自活の提供の可能性を作り出すことになるであろう」。住民交換は「100万人以上の人々の「立ち退き」が必要になることを認め、ナンセンは困難は実のところ計り知れないものと認識していた。彼は始めた。これら彼らの故郷から根こそぎになった人々を、見知らぬ新しい国に運び…放棄した彼らの個人的な財産を価値を算定し清算し記録をつけて、そして彼らにそれらの財産の価値の主張した分だけの支払いを保証して… 移民の所有物は保護され、彼らは「持ち運びのできる」持ち物の自身で運ぶことが許された。それは、所有物は両国の間のエーゲ海を横断するだけでなくリストに記録することが必要であった。これらリストは償還のために両国政府に提出することになっていた。住民の持ち物の問題を取り扱う委員会の設立ののち、この委員会は彼の不動産(家、車、土地など)のための個人への支払いの総額を決定した。移民らは新天地で彼らが捨ててきたものを合算した新しい所有物を用意されることが約束された。ギリシャとトルコは移民の持ち物の総額を計算し、余剰のある国は他方に支払った。ギリシャに残された全ての所有物はギリシャ国家に帰属し、トルコに残された所有物は全てトルコ国家の帰属となった。住民の性格の違いのせいでアナトリアに残されたギリシャの富裕なエリート層の持ち物はギリシャのイスラム教徒の農夫の所有物より大きかった。 M. Norman Naimark は、この条約はトルコにとって民族的に純粋な祖国を創造するための民族浄化運動の最後の部分だと主張した。歴史家Dinah Sheltonは同様に以下のように書いた。「ローザンヌ条約は国内のギリシャ人の強制的な輸送を完遂させた」。 イギリスの外務大臣カーゾン卿は、強制的な住民の交換が解決策になり、徹底的に悪い拙劣な解決方法であり、世界は向こう100年の間、重いペナルティを払うことになるだろうと遺憾の意を表した。彼はそれに関係することをひどく嫌った。しかしながら、ギリシャ政府の示唆はばかげたものになった。それはトルコ政府の行動によってトルコからこれら人々を追い出す強制された解決策であると。
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