世界四大文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/07 05:38 UTC 版)
世界四大文明(せかいよんだいぶんめい)は、歴史観・文明観の一つ。20世紀以降の日本や中国でのみ用いられる言葉・表現である[2][3]。国際的には「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)と言う。学術上、何をもって「文明」とするか、世界中の研究者によって様々な見解が提唱され明確に定義できていないために、文明の数についても特定できない。世界四大文明という言葉は、国際的に通用しない言葉であるだけでなく、学術上の提唱者すら不明であり、通俗的、慣習的に長年使用されている用語である[2]。
注釈
- ^ 杉山は以下のように述懐している。「ふと江上さんが「四大文明」という考えを日本に広めたのは自分だよと、愉快そうに笑われた。私は率直に、長江・ガンジス・マヤ・アンデスなども「文明」で、ざっと挙げても八~十個くらいはありますよとお答えした。ところが江上さんは、「四大文明」といったのは口調がいいからで、本当はいろいろあるさと大笑いされた。」[4]
- ^ 森安孝夫は次のように述べている。「「四大文明」というのは、第二次世界大戦後に日本でそれまでの西洋史と東洋史を統合した高校「世界史」が生まれた時に、西欧中心史観であるユーロセントリスムを打破する目的で江上波夫によって作り出された 概念である。そのことは最近, 村井淳志 …… によって指摘されたが, その後, 私は畏友の杉山正明・京大教授より,かつて江上波夫先生と面談した時に直接御本人からそのことを伺った,と教えられた。」[5]
- ^ この詩が作られた背景として、当時の梁啓超は戊戌の変法の失敗により1898年から日本に亡命しており、1899年末にハワイの同志に会うために太平洋を横断した際にこの詩を詠んだ。この詩で梁啓超は、世界史の三つの大きな区分を呈示している。第一は大河の周辺に四大文明が出現した「河流文明時代」、第二が地中海や紅海や黄海などの内海周辺に文明が広がった「内海文明時代」、そして今は大航海時代以降の「大洋文明時代」であるという。
出典
- ^ The World of Civilizations Archived 2007年3月12日, at the Wayback Machine.
- ^ a b c d e f 川尻文彦 2010, p. 154.
- ^ "四大文明". デジタル大辞泉. コトバンクより2013年11月12日閲覧。
- ^ 杉山正明 (2012年6月25日). “書評『マヤ文明』 青山和夫著”. 読売新聞
- ^ 森安孝夫「内陸アジア史研究の新潮流と世界史教育現場への提言(基調講演1,<特集>内陸アジア史学会50周年記念公開シンポジウム「内陸アジア史研究の課題と展望」)」『内陸アジア史研究』第26巻、内陸アジア史学会、2011年、8f、doi:10.20708/innerasianstudies.26.0_3、ISSN 0911-8993、NAID 110009829149。
- ^ 村井淳志「この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く--「四大文明」は江上波夫氏が発案した造語だった!」『社会科教育』第46巻第4号、明治図書出版、2009年4月、116–121頁、NAID 40016524949。
- ^ 下河辺半五郎『壬寅新民叢報彙編』1904年、881頁。doi:10.11501/899081 。
- ^ a b 石川禎浩 2019, 抄録.
- ^ a b “木語:歴史利用の中国外交=坂東賢治”. 毎日新聞. (2017年5月18日) 2017年10月20日閲覧。
- ^ “習氏、トランプ氏に中国史を教える一幕 「中国人は竜の子孫」”. AFP. (2017年11月9日) 2018年1月11日閲覧。
- ^ “王毅外相、世界古代文明フォーラムに出席”. 中国国際放送. (2017年4月25日). オリジナルの2017年10月19日時点におけるアーカイブ。 2017年10月20日閲覧。
- ^ “Athens to Host 1st Ministerial Conference of 'Ancient Civilizations Forum'”. GTP. (2017年4月18日) 2017年10月20日閲覧。
- ^ “평양이 세계 5대 문명 발상지 중 한곳?”. 東亜日報. (2011年6月24日). オリジナルの2013年6月25日時点におけるアーカイブ。
- 1 世界四大文明とは
- 2 世界四大文明の概要
- 3 関連項目
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