楚攻略戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)
紀元前224年、秦の武将王翦がまたもや60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を使い、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となった。項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。 紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死し、ついに楚を滅ぼした。楚の旧領は秦の九江郡となった。楚の攻略には数十万人から百万人の兵士が従軍し、35年前の秦と趙の長平の戦いに関与した兵士よりも多かったと推定されている。 紀元前222年、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、会稽郡を置いた。
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