幽王_(楚)とは? わかりやすく解説

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幽王 (楚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/28 16:04 UTC 版)

幽王 熊悍
第24代王
王朝
在位期間 前237年 - 前228年
都城 寿春
姓・諱 熊悍
諡号 幽王
生年 不詳
没年 幽王10年(前228年)3月
考烈王春申君の説あり)
李環(李園の妹)

幽王(ゆうおう)は、中国戦国時代の王(在位:紀元前237年 - 紀元前228年)。考烈王の子とされるが[1]、実父は春申君ともされる[2]

生涯

春申君の舎人李園は、妹の李環を春申君に献上した。李環が春申君の子を身籠った後、李園と李環は春申君を説得し、李環を考烈王に献上させた。李環は考烈王の寵愛を受けて王后に封じられ、産まれた悍(幽王)は太子に立てられた[2]

考烈王25年(紀元前238年)、考烈王が逝去すると、李園は春申君が秘密を漏らすのを危惧して一族ごと皆殺しにし、悍を楚王に即位させて楚の政治を牛耳った[2]

幽王3年(紀元前235年)、楚はの連合軍に攻められた[1]

幽王10年(紀元前228年)3月、幽王は在位10年で逝去した。その後、同母弟の猶(哀王)が楚王に即位したが、2か月余りで負芻の一派に殺害され、母を含む李園の一族も滅ぼされた[1]

史跡

楚大鼎(中国、安徽博物院所蔵)

幽王の墓所は、現在の安徽省淮南市寿県朱家集村(現在は長豊県に属する)に位置している。発掘以前は「李三孤堆」と呼ばれていた。土の高さは地表から2m以上、直径は約100m、墓所全体は周囲約400mに及ぶ。出土した遺物は4000点以上に上る。

1933年、安徽省で大洪水が起き、その時に墳墓が発見されたと伝えられている。出土品は青銅礼器が大半を占めた。当時の政府は700点余りの文物を押収して県教育局に保管し、その後省立図書館へ移し、解放後には安徽博物院に収蔵された。さらに一部は各地に流出し、そのうち鑄客銅鼎中国語版や10点の青銅器は天津博物館中国語版に収蔵された。

脚注

  1. ^ a b c 史記』楚世家
  2. ^ a b c 『史記』春申君列伝

外部リンク

先代
考烈王
前237年 - 前228年
次代
哀王



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