哀王 (楚)
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哀王 熊猶 | |
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楚 | |
第25代王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前228年 |
都城 | 郢(寿春) |
姓・諱 | 熊猶 |
諡号 | 哀王 |
生年 | 不詳 |
没年 | 幽王10年(前228年) |
父 | 考烈王 |
母 | 李環(李園の妹) |
哀王(あいおう)は、中国戦国時代の楚の王(在位:紀元前228年)。姓は羋、氏は熊。諱は猶。考烈王の子[1]で、幽王の同母弟。
生涯
幽王10年(紀元前228年)、兄の幽王が死去したため、即位した。
哀王は即位後わずか2カ月余で、庶兄[2]の負芻を擁立した楚の国人らによって、母の李環やその兄の李園と共に殺害された。このため、負芻が楚の王位に就いた。
劉向の『列女伝』によると負芻の一派は、幽王が考烈王の子ではなく春申君の子であることを知り、その同母弟で遺腹子の哀王にも疑いを抱いたとされる[3]。
脚注
- ^ 『史記』春申君列伝によると、同母兄の幽王は春申君の子である。
- ^ 『列女伝』弁通伝によると叔父とする。
- ^ “列女傳/卷7 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年8月21日閲覧。
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