李園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/01 04:34 UTC 版)
李 園(り えん、? - 紀元前228年)は、中国戦国時代末期の楚の政治家。趙の人で、春申君の舎人から楚王家の外戚となり、外甥の幽王の時代に楚の政治を牛耳った。
生涯
当代の考烈王には嗣子がなかったため、令尹の春申君はこれを憂慮し、多数の女性を献上したがついに子は生まれなかった。李園は妹の李環[1]を考烈王に進めようと思ったが、子を成せない事を知ると取り止めた。そこで李園は春申君に仕えることにし、一計を案じて李環を春申君に献じるとたちまち李環は寵愛された。やがて李環が春申君の子を身籠もると、李園は李環と謀略を練り、李環は春申君にこう説いた。
「王には子がありません。もし王が崩御された後には、王の兄弟が立つことになり、それぞれが親しい者を重用するでしょう。君(春申君)は高位の地位にあって政務を執って久しく、王の兄弟たちに対して多くの失礼があったことでしょう。もし兄弟が王に立てば、身に災いが及び、どうして令尹の印綬と封地を保つことができるでしょうか? 今、妾が身籠っていることは誰も知りません。妾を王に献上していただければ、王は必ず妾を寵愛することでしょう。妾が天の加護により男子を生めば、これは君の子が王となることであり、楚の全てを得ることができます。測り知れない罪に臨むのと、果たして比べられましょうか?」
春申君は大いに得心し、李環を考烈王に献上した。目論見通りに考烈王は李環を寵愛し、やがて男子の悍(幽王)が生まれると太子に立てられて李環は王后となり、それを背景に李園は政治に参与するようになった。
のちに李園は春申君が秘密を漏らすことを恐れ、密かに死士(刺客)を養成し、春申君の殺害を計画した。この計画は楚国内ではほとんど周知となっていたが、春申君は李園を軽視していたので取り合わなかった。
考烈王25年(紀元前238年)、考烈王が崩御すると、李園は先んじて宮中に入り、棘門(城門の名)に潜伏させた死士に春申君を襲撃させて刺殺し、その一族も皆殺しにした。太子悍(幽王)が即位すると李園は外戚として楚の実権を握ることとなった。
幽王10年(紀元前228年)、幽王が逝去し、同母弟で遺腹子の猶(哀王)が楚王に即位したものの、在位2ヶ月ほどで哀王の庶兄[2]の負芻の一派に母の李環共々殺害され、李園とその一族は皆殺しにされた。負芻らは幽王が考烈王の子でないことを知り、哀王の王統を疑ったのだという。
逸話
秦と魏は同盟を結んで連合し楚を攻撃しようと謀った。秦は辛梧という人物を魏に派遣し、秦・魏の連合軍を率いて楚に侵攻する予定であった。李園はこれを憂慮し、辛梧に書簡を送り、出兵を見合わせるよう説得した。李園は、もし秦と楚が和睦すれば矛先が魏に向かい、そうなれば辛梧は魏から追放され、やがて秦からも誅殺される危険があると警告した。事例として、かつて秦の井忌という将軍が趙と組んで燕を攻めた際、燕は蔡鳥という人物を使者として秦に遣わし、燕の10城を半ば無理やり呂不韋に受け取らせることで秦は燕との関係を強化せざるを得なくなり、結果として井忌は趙から追放されて秦に誅殺された事を持ち出して説得した。その結果、魏軍の出兵は大幅に遅れることになったという[3]。
脚注
参考文献
李園(りえん)
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「キングダムの登場人物一覧」の記事における「李園(りえん)」の解説
春申君食客→楚宰相。考烈王と春申君の王位継承の企てに自身の妹を通じて関わっており、考烈王の死後に考えを翻した春申君を暗殺後に、楚を立て直すために廉頗を通じて媧燐と対談し、媧燐に共に宰相になるように嘆願。媧燐と共に宰相となる。
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