李倓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/24 07:08 UTC 版)
李 倓(り たん、? - 757年)は、唐の皇族。粛宗の三男[1]。
経歴
粛宗と張氏のあいだの子として生まれた[2][3]。天宝年間、建寧郡王に封じられ、太常寺卿同正員に任じられた。英毅にして才略あり、騎射を得意とした。天宝15載(756年)、安禄山の反乱軍が長安を占領し、玄宗が蜀に避難するにあたって、李倓兄弟は親兵をつかさどって玄宗に扈従した。玄宗が渭水を渡ろうとすると、民衆が道を遮って皇太子李亨(後の粛宗)の残留を求めた。李倓は父に対して、河西に赴いて軍馬と辺境防衛の将兵を集め、再興を図るよう勧めた。兄の広平王李俶(後の代宗)もこれに賛成し、このことを李輔国を通して玄宗に奏聞させた。玄宗はこれを聞き入れ、官吏や兵士を分けて太子に従わせた。太子が北上して、渭水を渡ると、戦闘が連続したが、李倓は自ら勇猛な騎兵数百を選抜して父を護衛した。至徳元載(同年)7月、霊武で粛宗が帝位につくと、広平王李俶が元帥となり、李倓は親軍をつかさどり、李輔国が元帥府司馬となった[4][5]。
至徳2載(757年)、李倓は粛宗の寵愛を受けている張良娣(後の張皇后)が李輔国と結んで、皇嗣を動かそうとしていると上奏した。かえって張良娣と李輔国の誣告を受け、李倓は粛宗の怒りを買い、死を賜った。まもなく粛宗は後悔したが、遅かった[6][7]。
宝応元年(762年)、代宗が即位すると、李倓は斉王に追贈された。大暦3年(768年)、承天皇帝と追諡され、順陵に改葬された。玄宗の八女の寧親公主と張垍のあいだの十四女の張氏と冥婚し、彼女を恭順皇后と追諡した[8][9]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
- 李倓のページへのリンク