斉彬の造士館改革が生んだ明治維新の原動力
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「鹿児島大学」の記事における「斉彬の造士館改革が生んだ明治維新の原動力」の解説
重豪を曾祖父にもつ島津家28代島津斉彬(11代藩主)は重豪の影響を強く受けたとされる。和漢の学問に加えて洋学も良く学び、当代一流の蘭学者と積極的に交流した。世界情勢を見据え、日本の国力向上を目指した斉彬は、藩主となってすぐに造士館の改革に着手する。1857(安政4)年の「造士館学風矯正之御親書」で、「修身斉家治国平天下(身を修めて家庭をととのえ、国を治めて後、天下を平和に導くことができる)」の道理を研究し、時局に対応でき、国の役に立つ人材の育成を理想に掲げた。さらに、和漢の書物だけでなく西洋の諸書を熟読し、国際情勢に対応でさる実学の必要性を強調。藩内だけでは「井の中の蛙」になるとして、盛んに藩外へ遊学させた。これが後の薩摩藩英国留学生派遣につながるのである。 幕末の動乱期においては、造士館出身の人物が多数活躍したことが知られており、西郷隆盛や大久保利通といった明治維新の立役者も造士館で学んだといわれている。造士館の教育は、日本の近代化の礎も築いたといえよう。
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