斉明朝の石敷広場(石神遺跡)
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「朝庭」の記事における「斉明朝の石敷広場(石神遺跡)」の解説
熊谷公男は、上述の吉田、あるいは後述の古市の指摘する飛鳥の地形的制約は認めながらも、『日本書紀』斉明紀に、657年(斉明3年)を皮切りに3度にわたって須弥山の像を作ったという記事に着目している。たとえば、斉明5年(659年)3月条には「甘樫丘の東の川上に須弥山を造って、陸奥と越の蝦夷を饗す」の記事がある。甘樫丘からみて飛鳥川を渡ってすぐ東、飛鳥寺からみれば西方の飛鳥川との間の水田からは、1902年(明治35年)に須弥山像とみられる3個の石造遺物が、翌1903年には老翁と老女が寄り添う彫刻のなされた石人像が見つかり、石人像は2人の口から水が噴き出すように細工された噴水石であることが判明した。 この一帯は石神遺跡と呼ばれ、1981年(昭和56年)より継続的に発掘調査がおこなわれているが、斉明朝期から持統・文武朝期にかけての多くの遺構を検出し、特に斉明朝約6年半の短期間に数回もの大規模な整地と造営が繰り返され、その末期に最も整備されたことが判明した。 そこでは、南北82メートル以上の廊状の建物により東西が分割され、東区画の南半部には井戸を中心に数棟の建物が連なって、さらにその南には石敷の広場があり、東区画の北半部は、長大な4塔の建物が回廊のように配されて細長い区画を構成し、そのなかに2棟の建物が配されていた。西区画でも遺跡最大の建物など数棟の建物を検出した。いずれも建物や井戸の周囲には石敷が丁寧に施され、清浄さが重視されている。そして、ここから陸奥国産の土師器が出土したことは、斉明紀に記す蝦夷(他に多彌島(種子島)、覩貨邏(とから)、粛慎)など当時「化外の民」とされた人びとに対する饗応の記事ときわめて整合的であり、熊谷は、それまで朝庭でおこなっていた服属儀礼や仏教行事を、王宮内の広大な空間ではなく、王宮外に石を用いた荘厳な儀礼空間を新たに造営したうえでおこなったとして、斉明朝の政治理念の特異性を指摘している。
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