斉明朝の石敷広場とは? わかりやすく解説

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斉明朝の石敷広場(石神遺跡)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)

朝庭」の記事における「斉明朝の石敷広場(石神遺跡)」の解説

熊谷公男は、上述吉田、あるいは後述古市指摘する飛鳥地形的制約認めながらも、『日本書紀』斉明紀に、657年斉明3年)を皮切りに3度わたって須弥山の像を作ったという記事着目している。たとえば、斉明5年659年3月条には「甘樫丘東の川上に須弥山造って陸奥と越の蝦夷饗す」の記事がある。甘樫丘からみて飛鳥川渡ってすぐ東、飛鳥寺からみれば西方飛鳥川との間の水田からは、1902年明治35年)に須弥山とみられる3個の石造遺物が、翌1903年には老翁老女寄り添う彫刻なされた石人像が見つかり、石人像2人の口から噴き出すように細工され噴水石であることが判明した。 この一帯石神遺跡呼ばれ1981年昭和56年)より継続的に発掘調査おこなわれているが、斉明朝期から持統文武期にかけての多く遺構検出し、特に斉明朝約6年半の短期間数回もの大規模な整地造営繰り返され、その末期に最も整備されたことが判明した。 そこでは、南北82メートル上の廊状の建物により東西分割され東区画の南半部には井戸中心に数棟の建物連なって、さらにその南には石敷広場があり、東区画の北半部は、長大な4塔の建物回廊のように配され細長い区画構成し、そのなかに2棟建物配されていた。西区画でも遺跡最大建物など数棟の建物検出したいずれも建物井戸周囲には石敷丁寧に施され清浄さ重視されている。そして、ここから陸奥国産の土師器出土したことは、斉明紀に記す蝦夷(他に多彌島(種子島)、覩貨邏(とから)、粛慎)など当時化外の民」とされた人びと対す饗応記事きわめて整合的であり、熊谷は、それまで朝庭でおこなっていた服属儀礼仏教行事を、王宮内の広大な空間ではなく王宮外に石を用いた荘厳な儀礼空間新たに造営したうえでおこなったとして、斉明朝の政治理念特異性指摘している。

※この「斉明朝の石敷広場(石神遺跡)」の解説は、「朝庭」の解説の一部です。
「斉明朝の石敷広場(石神遺跡)」を含む「朝庭」の記事については、「朝庭」の概要を参照ください。

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