斉彬の藩主就任と集成館事業
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「集成館事業」の記事における「斉彬の藩主就任と集成館事業」の解説
このお家騒動を経て1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。 特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野まで広がっている点が他藩と一線を画す。 1858年に斉彬が亡くなった後、島津斉興をはじめとする保守派の復権などから集成館事業は一時縮小され、1863年の薩英戦争で焼失したが、その後急接近したイギリスの協力のもと再興され、集成館機械工場(現尚古集成館)や日本初の紡績工場である鹿児島紡績所などの洋式紡績工場が建設され、日本国の近代化に貢献した。
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