垂沙の戦いとは? わかりやすく解説

垂沙の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 03:02 UTC 版)

唐眜」の記事における「垂沙の戦い」の解説

紀元前301年、斉・魏・韓・秦の4カ国が連衡して、攻め込み垂沙(現在の河南省南陽市唐河県)の戦い勃発した。この時、指揮官務めたのが唐眜だった。 斉は匡章、魏は公孫喜、韓は暴鳶、秦は庶長の奐を派遣し、軍を唐眜籠る方城現在の河南省平頂山市葉県)へ向かわせた。斉・韓・魏の連合軍と、唐眜率い楚軍は沘挟んで対陣した。この対陣は6カ月及んで戦線膠着し、斉の宣王督戦使者として周最匡章元に遣わし直ぐに渡河して戦う様に促した匡章戦機熟すのを待っていたが、渡河しようにも河の深さ分からず家来出して河の深さを測らせ様にも、楚軍が弓を射って来て誰も河辺に近寄る事が出来なかった。 しかし、匡章はある時一人木こりから楚軍配置聞き出し、それにより楚軍兵士が多い部分は河の深さが浅い場所、楚軍兵士少ない場所は河の深さが深い場所である事を見抜き精鋭を選ぶと夜が訪れるのを待って楚軍兵士が多い場所から攻撃仕掛けた半年対陣楚軍はすっかり気が緩んでしまっており、連合軍渡河許してしまい、数千人が討ち取られた上に唐眜戦死してしまった。

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垂沙の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:36 UTC 版)

匡章」の記事における「垂沙の戦い」の解説

紀元前301年、斉・魏・韓・秦の4カ国が連衡して、攻め込み垂沙(現在の河南省南陽市唐河県)の戦い勃発した。この時、指揮官務めたのは唐眜だった。 斉は匡章、魏は公孫喜、韓は暴鳶、秦は庶長の奐を派遣し、軍を唐眜籠る方城現在の河南省平頂山市葉県)へ向かわせた。斉・韓・魏の連合軍と、唐眜率い楚軍は沘挟んで対陣した。この対陣は6カ月におよんで戦線膠着し、斉の宣王督戦使者として周最匡章元に遣わし直ぐに渡河して戦うように促した匡章戦機熟すのを待っていたが、渡河しようにも河の深さ分からず家来出して河の深さを測らせようにも、楚軍が弓を射って来て誰も河辺に近寄ることが出来なかった。 しかし、匡章はある時一人木こりから楚軍配置聞き出し、それにより楚軍兵士が多い部分は河の深さが浅い場所、楚軍兵士少ない場所は河の深さが深い場所であることを見抜き精鋭を選ぶと夜が訪れるのを待って楚軍兵士が多い場所から攻撃仕掛けた半年対陣楚軍はすっかり気が緩んでしまっており、連合軍渡河許してしまい、数千人が討ち取られた上に唐眜戦死してしまった。

※この「垂沙の戦い」の解説は、「匡章」の解説の一部です。
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