王になる前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:37 UTC 版)
古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノス2世の側近にイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身のアンティパトロス(彼の父も同名だったので正確には「アンティパトロス2世」)という武将がいた。ヘロデはこのアンティパトロスの息子である。父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功し紀元前47年の夏ごろ、ユリウス・カエサルによってユダヤのプロクラトル に任命されていた。 カエサルの暗殺後、父アンティパトロスはローマ東方へ勢力を拡大したガイウス・カッシウス・ロンギヌスらのリベラトレス(共和派・元老院派)側へ味方した。王と大祭司であるヒルカノス自身は温和ではあるが愚鈍で非行動的な人間だったのでアンティパトロスは息子たちに政治を任せ、この時にガラリヤ地方を任された次男(長男のファサエロスはエルサレム周辺管轄)がヘロデであった。若い頃のヘロデは気性の強い活発な若者で、シリアとの国境周辺にいたエゼキアスという盗賊団を壊滅させるなどの活躍をして父や兄共々高い評価を得たが、同時に周囲の人々はアンティパトロスの財力や権力の増大を危惧したため、前述のヘロデがエゼキアス一味を裁判にかけずに殺したことを上げてヘロデ自身が裁判にかけられたが、裁判を開いたヒルカノス自身やこの法廷には居なかったが当時のシリア総督セクストスもヘロデの肩を持っていたこともあり、彼に死刑判決が下りそうな空気を悟ったヒルカノスの勧めでセクストスの支配下であるダマスコに亡命し、後日セクストスからシリア総督の地位を買ってエルサレムに軍を率いて来て力ずくでこの判決を覆した。また、紀元前43年に父がマリコスというユダヤ人に毒殺されると、復讐の機会をうかがい、カッシウスから許可を取ったうえでマリコスが挙兵を目論んでいたという事を理由に謀反人としてヒルカノスの前で殺させた。それから間もなくカッシウスがシリアを発つとユダヤ地方では騒乱が頻発したが、ユダヤ地方(狭義)で起きたヘリックスやマリコスの兄弟の蜂起はファサエロスに、ガリラヤ地方で起きたアンティゴノスとツロの僭主マリオンの進攻はヘロデによって鎮圧され、この頃までにヘロデはヒルカノスの孫娘(アリストブロス2世の孫でもある)のマリアムネ1世との結婚を約束されていたため、ヒルカノスからは従来以上にその地位を守ってもらえるようになっていた。 ところが、紀元前42年のフィリッピの戦いでカッシウスはマルクス・アントニウスとオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れ、その後アントニウスがアシアに来たため、ファサエロスとヘロデの専制的なやり方を嫌っていたユダヤ人の指導者たちは彼らがヒルカノスから権力を横取りしていると訴えたが、ヘロデの方が一枚上手でこれについて出頭して弁明し、さらにアントニウスを買収して告発者たちに発言の機会を与えずに文字通り黙らせ、告発者たちはアントニウスがシリアに来た時に再度訴えたものの、アントニウスだけではなくヒルカノスもヘロデ側についていたため、逆にファサエロスとヘロデは正式にテトラルケス(四分領太守・四分封領主)に任命されユダヤ人に対する行政を委任された。これでもまだ諦めなかった告発者達は騒乱を扇動するものとしてアントニウスに捉えられ、なるべく穏便に事を済ませようとしたヘロデは処刑にまでは至らないように仲裁し、逮捕には至らなかった人たちにもこれ以上争うのは危険だから去るように最後通告をしたが、結局拒否的な態度を取っていた告発者たちはローマ兵の攻撃を受け、逮捕された人々はアントニウスに処刑された。 ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。以前ヘロデに撃退されたアンティゴノスが、今度はパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を翻したのである。この時パルティア人が友好的なそぶりで来たためヒルカノスとヘロデの兄ファサエロスは油断して彼らの元に行きそのまま捉えられてしまったが、警戒してついていかなかったヘロデは婚約者マリアムネや彼女の母、自分の母や妹・弟などの女子供、ならびに従者や自分に従う民衆を連れてイドメアのオレサで弟のヨセフスと合流し、ここでついてきた連中のうち一般民衆など9000人はここで食料などを持たせ比較的安全なイドメア地方内で逃げるように指示し解散させ、親族など重要人物は死海沿岸のマサダに逃げ込ませてヨセフスにそこを託し、主要なものだけを連れてさらに南のペトラに逃げようとしたが、そこを支配するナバテア王マルコスにペトラへ来ないように頼まれたため、計画を代えエジプトのアレクサンドリアに向かい(この道中でヘロデは兄の死を知った)、さらに嵐に遭いながらもローマに行きアントニウスにこのことを訴えた所、以前より親しくしていたことが功を奏して要求が受け入れられたうえに、オクタウィアヌスにも同意を得られたことで元老院の公式議会で「ヘロデはユダヤの王である」と宣言された。 この時点でパルティア軍はアントニウスに任命されていたレガトゥスのウェンティディウスによってシリア一帯から追い返されていたが、彼らはアンティゴノスに対しては金を受け取るだけで直接攻撃はしなかったので、アントニウスはウェンティディウスとその副官のシロンにヘロデに味方するように命令を下し、ヘロデはこれらの援軍の力を借りてヨッパやマサダを制圧後エルサレムに向かったが包囲戦を行うには時期が悪く、一旦冬季用の陣営に帰還した。翌年(紀元前38年)の春、パルティア軍は再度攻めてきたがウェンティディウスたちがこれを撃破し、ヘロデも弟のヨセフスの戦死などもあったがエルサレム周辺以外をほぼ制圧したため、紀元前37年の春からエルサレムを包囲し(エルサレム攻囲戦)、さらにこの時マリアムネと正式に結婚をし、婚礼が終わってヘロデは陣営に戻り、ウェンティディウスの後任として協力してくれるローマのソシウスからの援軍もあり、エルサレムは陥落してアンティゴノスは捉えられた。ヘロデはローマ兵がエルサレムで略奪などをされては困るので、彼らに謝礼として現金を支給する代わりにエルサレムでの略奪をしないように頼んで帰させ、さらにアンティゴノスが元老院で王位正当性を主張される危険を考えアントニウスに頼んで処刑させ、ここにハスモン一族の人間がユダヤの王であった時代は終わった。
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