王のワイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 08:36 UTC 版)
「シャトー・ラフィット・ロートシルト」の記事における「王のワイン」の解説
「ラフィット」という呼び名は中世の農園の名称として14世紀の文献に登場する。ポーイヤック村の中で一番小高い丘に位置していたことから、古いガスコーニュ語で「小高いところ」を意味する「La Hite」(ラ・イット)が転じてラフィットと名づけられたという。ブドウの作付けは中世から行われていたが、17世紀にセギュール家がシャトー・ラフィットの所有者となり転機が訪れた。1670年代から80年代にかけて、ジャック・ド・セギュールがブドウ畑を広げ、ワインの生産を本格化させた。 ジャックの相続人アレキサンドルは1695年にシャトー・ラトゥールの女性相続人と結婚し、息子のセギュール侯爵ニコラ・アレキサンドルをもうけた。ラフィット、ラトゥール、カロン・セギュールなどの広大な農園を相続したセギュール侯爵は、ワインの生産技術の改良に力を注ぐとともにヨーロッパ各国の上流階級へ販路を広げ、ほどなく「葡萄園の王子」とあだ名されるようになった。当時ボルドーワインの需要の中心地は、歴史的経緯もあってイギリスであった。ワイン好きの首相ロバート・ウォルポールは3か月ごとにラフィット1樽、つまり普通サイズのワイン瓶300本分を空けていたという。 一方、フランスの宮廷ではギュイエンヌ(ボルドーの旧州名)は田舎というイメージがあり、専らブルゴーニュワインが愛飲されていた。1760年、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人は、ワインで王の歓心を買おうとブルゴーニュのある高名な畑を手に入れようとしたが、コンティ公ルイ・フランソワ1世に競り負けてしまう。この畑は後にロマネ・コンティと呼ばれるのだが、顛末を見ていたギュイエンヌ総督のリシュリュー男爵マレシャル(リシュリュー枢機卿の縁者)が、代わりにラフィットをポンパドゥール夫人に勧め、大いに気に入った夫人はヴェルサイユ宮殿の晩餐会で必ず飲むようになった。これをきっかけにボルドーワインが宮廷で脚光を浴び、中でもラフィットは「王のワイン」という名声を得ることになった。 フランス革命前夜、ラフィットの名声は既に揺るぎのないものとなっていた。当時ヴェルサイユにアメリカ合衆国大使として赴任していたトーマス・ジェファーソンはアメリカ大陸でのワイン造りを思い立ち、1787年5月にラフィットを含む主要なボルドーワインを調査して回った。ジェファーソンもまたラフィットに魅せられ、生涯の愛好者となった。
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