王の側近に抜擢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:09 UTC 版)
イングランド東部サフォークのイプスウィッチに生まれた。父親は肉屋をしていた。地元のグラマースクールとオックスフォード大学のモードリン・カレッジで学び、カレッジのフェローに選出、1498年に聖職者の資格を得る。それからは貴族たちの知己を得ながらサマセットのリミントン(英語版)を始め各地の聖職禄も獲得、カンタベリー大司教ヘンリー・ディーン(英語版)付きの司祭(チャプレン)、カレー総督代理リチャード・ナンファン付きのチャプレンを経て、イングランド王ヘンリー7世の治世の1507年に王室礼拝堂付き司祭となり、ヘンリー7世に能力を買われ外交使節を務めた。しかし慎重なヘンリー7世から警戒され出世しなかったという。 1509年に即位したヘンリー8世にも認められ、非公式の秘書官に抜擢されて王とリチャード・フォックス(英語版)ら顧問官たちのパイプ役を務め、フォックスの引き立てもあり出世は続き1511年に枢密顧問官となった。1513年のヘンリー8世のフランス遠征(カンブレー同盟戦争)に伴う兵站、王への豪華な調度品移送などの準備に奔走した功績で王の覚えがめでたくなり、イングランド軍が占領したトゥルネーの司教(英語版)とイングランドのリンカン司教(英語版)に任命され、翌1514年にヨーク大司教(英語版)にも任命され4000ポンドの莫大な不動産収入を手に入れたが、失脚するまで任地ヨークへ行かない教区不在聖職者であった。翌1515年にヘンリー8世からローマ教皇レオ10世への推薦で枢機卿にも任命、同年にウィリアム・ウォラム(英語版)の後釜として大法官、1518年に教皇特使となる。これにより、聖俗共に司法権を握り教皇特使の権限でカンタベリーとヨーク双方の教会管区にも支配を及ぼし、イングランド教会の支配を一手に収めるようになった。教皇特使就任に当たって教会改革を約束したり、親交があるデジデリウス・エラスムスのイングランド滞在に尽力する一面もあった。 以後も1518年にバース・アンド・ウェルズ司教(英語版)、1523年にダラム司教(英語版)、1529年にウィンチェスター司教(英語版)と収入の多い聖職禄を獲得、1521年にはセント・オールバンズ修道院(英語版)からの収入も確保、1万ポンドにも上る収入を腹心たちへの金のばら撒き、ハンプトン・コート宮殿などの建築に浪費した。また愛人ジョアン・ラーク(英語版)との間に庶子トマス・ウィンター(英語版)を儲け、この庶子に便宜を図り2500ポンドを使ったという。 1515年にヘンリー8世の妹メアリーが夫のフランス王ルイ12世亡き後に許可無くサフォーク公チャールズ・ブランドンと再婚、王の怒りを買い窮地に陥ったサフォーク公と王の間を取り成してもいる。反面、1521年にバッキンガム公エドワード・スタッフォードに謀反の疑いありと王に通報、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に男児が無く、王位継承問題で猜疑心を募らせていた王が王家と血縁があるバッキンガム公を処刑するきっかけを作った(バッキンガム公本人はウルジーら卑賎の出の廷臣を見下していたが、王位に興味が無かったという)。
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