王の側近として活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:45 UTC 版)
「トマス・クランマー」の記事における「王の側近として活動」の解説
翌1533年3月、王の指名でウィリアム・ウォラム(英語版)亡き後のカンタベリー大司教に就任した。司教でなかったにもかかわらずクランマーが指名された理由は、王が再婚相手に考えていたウィルトシャー伯の娘アン・ブーリンと宗教思想が近いこと(アンとクランマーはプロテスタントの福音主義に共鳴していた)、候補者の1人ガーディナーが王に疎まれたこと、離婚問題をイングランド国内で審理するためには首席聖職者であるカンタベリー大司教が欠かせず、王の意向に忠実であること、篤実なクランマーが王に気に入られたことが挙げられる。クランマー自身は学究肌で政治との関わりを好まなかったが、この地位に指名されたことで王への忠誠心と自らの信仰の板挟みに悩むことになる。また、大司教職を逃したガーディナーから恨まれ、以後彼とはことごとく対立していった。 先立つ1月にヘンリー8世とアンの極秘結婚式に立ち合い、3月に教皇クレメンス7世から大司教叙任の勅書を受け取り正式に就任した。その際、教皇より国王の意思を優先する主旨の宣言を行い、上告禁止法に基づき4月に開いた法廷ではヘンリー8世の離婚問題について、王にそもそもキャサリンとの結婚は無効であったと進言し、キャサリンとの離婚とアンとの再婚を承認した。その為ヘンリー8世と共にクレメンス7世に破門された。 以後も変転著しいヘンリー8世の度重なる結婚に立ち合い、それに伴う出来事にも関わった。アンが産んだエリザベス王女(後のエリザベス1世)の代父を務めたり、アンの結婚とエリザベスの嫡出を宣言する第一継承法が出されると、この2点の宣誓を人々に強制させる委員会に所属したが、1536年に一転してアンと王の結婚無効を宣言しエリザベスの王位継承権を剥奪、アン処刑後は王のジェーン・シーモアとの3度目の結婚を承認した。更にジェーン死後の1540年1月にはアン・オブ・クレーヴズと王の4度目の結婚式を司り、彼女との離婚でキャサリン・ハワードが王の5度目の結婚相手になったが、1541年にキャサリンの不貞を王に報告、事実の取り調べに当たった(翌1542年に不貞が発覚したキャサリンは処刑)。一方でトマス・モア、アン・ブーリン、トマス・クロムウェルなどヘンリー8世により処刑された者たちの弁護も行い、第一継承法への宣誓を拒否するモアを説得したり、アンやクロムウェルの無実を王へ訴えたが、彼等の助命は叶わず処刑された。 大陸のプロテスタントと関係が深い経歴からクロムウェルと並ぶイングランド国教会の福音主義者で宗教改革の推進役と目され、1538年に英語訳聖書を全ての教会で用意することをクロムウェル共々王を説得、1539年4月に刊行されたイングランド最初の欽定訳聖書『大聖書』では口絵でクロムウェルと共に聖書を国民へ下げ渡す人物として描かれた。1540年のクロムウェル処刑後はジェーンの兄のハートフォード伯エドワード・シーモア(後のサマセット公)と組んで保守派のカトリック勢力であるノーフォーク公トマス・ハワードやガーディナーと対抗、1543年にはガーディナーらが陰謀を巡らせ、枢密院内部の保守派が王に讒言、異端容疑で逮捕される寸前になったが、王の信任が変わらなかったため逮捕されずに済んだ。1547年に王の遺言執行人の1人に選ばれ650ポンドを遺贈、1月28日に王の死を看取り、2月14日の葬列に参加した。
※この「王の側近として活動」の解説は、「トマス・クランマー」の解説の一部です。
「王の側近として活動」を含む「トマス・クランマー」の記事については、「トマス・クランマー」の概要を参照ください。
- 王の側近として活動のページへのリンク