一族への封爵と四公の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
4月、撫軍将軍慕容軍を襄陽王に、左将軍慕容彪を武昌王に、衛将軍慕容恪を太原王に、鎮南将軍慕容評を上庸王に、安東将軍慕容覇を呉王に、左賢王慕容友を范陽王に、前鋒都督慕容強を洛陽王に、散騎常侍慕容厲を下邳王に、寧北将軍慕容度を楽浪王に、弟の散騎常侍慕容宜を廬江王に、慕容桓を宜都王に、慕容遵を臨賀王に、慕容徽を河間王に、慕容龍を歴陽王に、慕容納を北海王に、慕容秀を蘭陵王に、慕容嶽を安豊王に、慕容徳を梁公に、慕容黙を始安公に、慕容僂を南康公に、子の慕容臧を楽安王に、慕容亮を勃海王に、慕容温を帯方王に、慕容渉を漁陽王に、慕容暐を中山王にそれぞれ封じた。 また慕容恪を大司馬・侍中・大都督・録尚書事に、慕容評を司徒・驃騎将軍に、尚書令陽騖を司空・守尚書令に任じた。これ以降、既に太尉に任じられていた封奕と共に、大司馬慕容恪・司徒慕容評・司空陽騖が群臣の筆頭として朝政を統括していった(いわゆる四公)。 さらに、慕容儁は冀州刺史・呉王慕容覇を信都に移らせて統治を命じたが、程なくして侍中・録留台尚書事に改任して旧都である龍城を鎮守させ、この時期に慕容覇の名を慕容垂と改めさせた。だが、慕容垂が東北(遼西・遼東一帯を指す)の民から絶大な支持を得るようになると、慕容儁はその人望を妬んで再び中央へ呼び戻した。 8月、慕容儁は諸勢力併呑の為に再び大規模な軍事行動を起こそうと考え、大々的に軍隊を整備すると共に、詔を発して「丙戌(355年9月)に挙兵せん」と宣言した。 9月、黄門侍郎宋斌らが冉智を盟主として謀反を為そうとしているとある人物より密告があり、慕容儁は彼らを誅殺した。 10月、慕容儁は龍城に移った。幽州・冀州では慕容儁が東へ離れた事で騒乱が起こり、各地で賊の勢力が割拠するようになった。 同年、代より使者が到来し、前燕と修好を深めた。 355年4月、慕容儁が薊城に帰還すると、群臣は自立していた勢力を討つよう勧めたが、慕容儁は「群小なる者どもは朕が東巡したので、当惑して乱れたに過ぎぬ。今、朕は既に到着した。すぐに自ら定まることだろう。討つには及ばぬ。しかしながら不虞の備えもまた必要ではあるか」と述べ、討伐には赴かなかったものの、内外に戒厳を命じた。 5月、東晋の蘭陵郡太守孫黒・済北郡太守高柱・建興郡太守高瓫、前秦の河内郡太守王会・黎陽郡太守韓高がみな郡を挙げて前燕に帰順した。また、これより以前に前燕の車騎大将軍・范陽公であった劉寧は遒城ごと前秦に寝返っていたが、前燕へ降る者が多数現れているのを見て翻意し、2千戸を伴って薊城へ詣でて慕容儁に謝罪した。慕容儁はこれを赦し、彼を後将軍に任じた。 5月、給事黄門侍郎申胤は上言し、前燕における朝廷の儀礼制度や冠冕の様式が未だ定まっていないことから、詳しく制定するよう訴えた。慕容儁はこれに同意し、下書してこの事について太常に参議させるよう命じた。
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