裁判終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 21:16 UTC 版)
1984年以降、コントラの活動によって生じた物的損害は2億5000万ドルにも上り、1万3000人の死傷者を出した。またこのような直接的損害だけでなくニカラグア国内では経済状況も悪化していった。GDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。1985年にはインフレ化が進み、1984年に35.4パーセントだったインフレ率は翌1985年には219.5パーセント、1986年には681.6パーセント、1987年には1,100パーセントと急激に上昇していった。こうしたニカラグア国内経済への悪影響もコントラの活動に起因するものといえる。こうした危機的状況下でサンディニスタ政権は超緊縮政策をとらざるをえず、その結果ニカラグア国民の反感をかった。一方でアメリカでは、中米における紛争への介入に反対するアメリカ国内世論をうけ、1987年に議会がコントラへの援助停止を決定した。こうしたニカラグア国内の疲弊やアメリカのコントラに対する態度の変換から、両国の対立関係は次第に変化していく。1990年にニカラグアで行われた総選挙ではアメリカが支持する反体制国民連合(英語版)が圧勝して同年2月25日にビオレタ・チャモロが大統領に選出され、4月19日にはサンディニスタ民族解放戦線とコントラの間で停戦協定が成立し、コントラの武装解除や政府軍の兵力縮小が行われた。ICJは1987年9月7日のニカラグアによる損害賠償額算定手続き開始の請求(#損害賠償参照)をうけて一旦手続きを開始したが、1991年6月5日にニカラグア議会(英語版)はアメリカに賠償を要求することを定めたニカラグア国内法を廃止する法案を可決、前記のようにアメリカの支持のもと成立したニカラグアの新政権は1991年9月12日にICJに対し本件請求の取り下げを通告し、同年9月26日にICJは裁判終了を宣言する命令を下した。
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