復員・詩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)
1953年(昭和28年)3月5日、スターリンが死去、3月下旬にはソ連共産党中央員会幹部会によって囚人120万人の釈放と事件再審の決定が出された。この決定は囚人にとって朗報であったと同時に、旧ソ連各地の強制収容所 (ヴォルクタ、ノリリスク、カザフスタンのケンギルなど) で囚人によるストライキを引き起こし、内務省軍部隊による鎮圧によって流血の事態を招いた。その後、ラーゲリに収容されていた囚人たちは続々と釈放され始め、石原も同年6月にナホトカへ移送された。 1953年10月から11月にかけて日ソ両国の赤十字社を介して長期抑留者の送還に関する協定が結ばれ、冷戦下4年近く途絶えていた旧ソ連からの引き揚げが始まった。11月30日、引き揚げ船「興安丸」による引き上げ第1陣が日本に到着した。 興安丸はナホトカから出港、1953年12月1日に舞鶴港に到着した。石原はこの興安丸で日本に帰国、舞鶴港では弟が出迎えたが父母はすでに他界していた。 引き揚げ後、石原は舞鶴の引揚者収容施設で、2冊の文庫本を手に入れる。そのうちの1冊が堀辰雄の『風立ちぬ』で、これが石原が帰国して最初に読んだ本である。石原はこの時の感銘を、晩年のエッセイ「私の詩歴」(1975年)の中に書き残している。そして、この文庫本の解説に書かれていた立原道造の文章の1節が石原に詩人としての道を決定づけた。シベリア抑留の8年間、周囲で聞こえる言葉の大半はロシア語であったことから、日本語が非常に懐かしく感じられ、また、非常に新鮮だったと「沈黙するための言葉」(『日常への強制』所収) のなかで石原は回想している。 8年に及んだ抑留生活と、帰国した日本の生活環境の間にある大きなギャップに石原は大きな戸惑いを感じた。舞鶴に到着後東京へ戻り品川駅に降り立った時の、シベリアでのゆっくりと過ぎ行く時間の流れとはあまりにも異なった、せわしない人々の動きに恐怖感を覚えた、と石原は書いている。 同時に、石原は1960年のエッセイ「こうして始まった」の中で「僕は働くのがいやだった。栄養失調と動物的な恢復をせわしなくくりかえして来た僕の躯は、労働というものを本当に憎んだ」と書いており、ラーゲリにおける強制労働は石原に、労働に対する嫌悪感を残さずにはおかなかった。 事務職に自信のなかった石原は、帰国してから肉体労働の仕事を求めて職業安定所に通ったが、どこも失業者にあふれており仕事は見つからなかった。せっぱつまった石原は、兵隊くらいなら勤まるだろうと思い自衛官 (当時はまだ自衛隊はなく、保安隊の時代) に応募してみたが、やはりうまくいなかった。その後石原は知人の紹介で、1954年10月からラジオ東京 (後のTBSラジオ) の翻訳のアルバイトを始めた。 当初、翻訳のアルバイトは数人いたのだが、石原の仕事がてきぱきとしており、結果的に他のアルバイトが次々と馘首される結果を招き、最後には石原一人だけになってしまった。帰国した日本の社会が、他人を押しのけないと生きていけないものであることに嫌気がさした石原は、このアルバイトを約半年で辞めてしまう。この時、石原は帰国した日本の社会もまた、強制収容所と同様にむき出しのエゴイズムが横行する社会であることを実感した。石原は帰国直後の思い出をもとに、後年自分の日記の中に「人を押しのけなければ生きて行けない世界から、まったく同じ世界へ帰って来たことに気づいた時、私の価値観がささえをうしなったのである」と書いている。 帰国の翌年1954年(昭和29年)が明けるとすぐに石原は静養のため故郷の西伊豆・土肥町 (後の伊豆市) へ帰った。しかし、石原はここで親戚から手ひどい扱いを受け、そのことが原因で2度と故郷へ戻ることはなかった。ここで受けた扱いについては、後に石原がエッセイ「肉親へあてた手紙」(『日常への強制』所収) に書いている。 石原は親類から、潜在的な共産主義者だと見なされ非常に警戒された。石原が最初に言われたことが、共産主義者ではないことを証明せよ、というものだった。その他、経済的な親にはなれないが精神的な親にならなってもよい (言いたかったことの中味は正確にはわからないが、経済的な面倒を見る気は一切ない、しかし、「親」の言うことは聞け、という意味らしい)、先祖の供養をするべきだ、と言われた。 もっと長く滞在する予定だったが、2週間で切り上げ、石原は東京へ戻った。そして、以後2度と帰郷せず、これを機会に肉親・親類と事実上の絶縁状態になる。 長期シベリア抑留者は親睦団体を作っていたが、石原も「朔北会」の会員になった。しかし、その活動に関係することはなかった。石原はシベリア抑留者と接触することを好まなかった。エッセイ「ある再会」(『断念の海から』所収) では「シベリア帰りの旧知と会うとき、当然タブーとなっている話題があって、そのことをはっきり自覚したうえで、互いに目をそむけながら、あらぬことを語り合う苦痛は、経験した者にしかわからないだろう思う。」と書いており、シベリア時代の自分たちの行状を思い出させることは自身にとって非常につらいものだったことがその原因だったようである。 石原は帰国後間もなくから深酒するようになったが、特にラーゲリに関する散文を書き始める頃からはその傾向がひどくなり、晩年にはアルコール依存症になった。
※この「復員・詩」の解説は、「石原吉郎」の解説の一部です。
「復員・詩」を含む「石原吉郎」の記事については、「石原吉郎」の概要を参照ください。
- 復員・詩のページへのリンク