貨車航送能力の回復の遅れとデッキハウス船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:44 UTC 版)
「洞爺丸」の記事における「貨車航送能力の回復の遅れとデッキハウス船」の解説
戦時下を生き延びた、たった2隻の車両渡船も、1945年(昭和20年)8月30日に、先ず第七青函丸が函館港北防波堤に衝突して入渠休航となり、同船が復帰した同年11月28日には、第八青函丸が青森第1岸壁で貨車積込作業中、ヒーリング操作不調で、その場に沈座してしまい、翌1946年(昭和21年)1月1日、ようやく浮揚するという事故も発生した。この修復工事に際し、比較的容易に実施可能な旅客輸送力増強策として、1946年(昭和21年)4月、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に、定員535名の木造の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して、“デッキハウス船”と呼ばれる客載車両渡船としたうえ、同年5月21日より旅客扱いを開始した。 一方1945年(昭和20年)10月9日には、戦時中より建造中であった、いわゆる“続行船”の第十一青函丸 が就航し、翌1946年(昭和21年)5月15日には同じく第十二青函丸が就航した。同年7月23日には同じく石狩丸(初代)も就航したが、当初これら3隻は、旅客設備のない車両渡船として建造工事が行われていた。しかし第十一青函丸では就航1年後の1946年(昭和21年)9月に、他の2隻は建造中に、第八青函丸同様、早期の旅客輸送力増強を目指し、船橋楼甲板に定員300 - 400名の鋼製の旅客用甲板室を造設して“デッキハウス船”とした。しかし、戦後竣工の新造船は、就航と同時に進駐軍専用船に指定されてしまい、さらに1946年(昭和21年)6月には、就航中ならびに今後就航予定の全“デッキハウス船”を進駐軍専用船に指定する、との指令が出され、日本人向けの輸送力増強は進まなかった。
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