車両甲板下客室の廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 15:47 UTC 版)
「十和田丸 (初代)」の記事における「車両甲板下客室の廃止」の解説
本船は洞爺丸事件後の補充船として急遽建造されたこともあり、概して客室の内装は簡素であった。また安全性重視の観点から、非常時の脱出に難のある車両甲板下への客室設置が見送られたが、急増する旅客需要にも対応せざるを得ず、当時の羊蹄丸型以上の旅客定員としたため、客室、特に各等の出入口広間が狭く窮屈で、旅客誘導上も不便であった。なお各種別旅客定員は以下の通りであった。2等470名(A寝台54名、椅子席108名、雑居室308名(前部164名、右舷144名))、3等1,000名(中甲板椅子席212、遊歩甲板後部雑居室488名、中甲板前部雑居室210名、中甲板右舷雑居室90名)の計1,470名。 なお、1956年(昭和31年)6月1日からの大雪丸の各種別旅客定員は、2等438名(A寝台44名、B寝台30名、椅子席109名、雑居室255名)、3等814名(下部遊歩甲板椅子席194名、第二甲板前部雑居室230名、第二甲板中部雑居室210名、第二甲板後部雑居室180名)の計1,252名であった。 設置を避けるべき車両甲板下の3等船室は、当時の羊蹄丸型では、ボイラー室前方の2区画、3等前部雑居室230名、中部雑居室210名と、機械室後方の車軸室の後部雑居室180名の計620名で、これらを遊歩甲板後部雑居室488名と中甲板前部雑居室210名へ移動させて698名分確保した。 この3等遊歩甲板後部雑居室488名転入により、羊蹄丸型で同所にあった2等雑居室は、遊歩甲板中央部右舷の144名と遊歩甲板前部の164名定員へと移動し、計308名を確保した。遊歩甲板中央部右舷はもともと、前方の旧1等出入口広間と後方の2等出入口広間をつなぐ広い通路で、前方では喫煙室としてソファーが置かれ、後方は通路に面して事務長室、主席事務室等が設置されていた。これら事務部高級船員室は車両甲板右舷へ転出させた。遊歩甲板前部には2等A寝台室があったが、これはそっくり1層上の端艇甲板へ移転させ、そこにあった機関部と通信部の高級船員居室も車両甲板右舷へ転出させ、無線通信室は操舵室後ろ隣へ移転した。なお羊蹄丸型では車両甲板右舷は一部に船員居室はあったが、大部分は車両甲板下の3等雑居室利用客用のトイレ・洗面所が設置されていた。 羊蹄丸型では遊歩甲板の食堂配膳室の後ろに隣接して2等B寝台が設置されていたが、本船では設置されず、その分、食堂と配膳室が後方へ移動し、前方の旧1等出入口広間との間が空いたため、ここに2等椅子席を設けた。 船首中甲板への3等雑居室配置により押し出された高級船員食堂、甲板部船員食堂、甲板部船員居住区は、食堂が1層下の車両甲板前方に下がり、元からあった機関部船員食堂も含め、船員食堂区画とした。中甲板の甲板部船員居室と車両甲板の機関部船員居室は、羊蹄丸型では3等雑居室となっていた車両甲板下第二甲板のボイラー室前方に隣接した2つの水密区画へ移され、羊蹄丸型でも事務部船員居住区であったこれら2区画のさらに前方の1区画を含め、連続3区画が船員居住区となり、船首側から順に、甲板部、機関部、事務部の各普通船員居室となった。
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