事故直前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 19:40 UTC 版)
「二又トンネル爆発事故」の記事における「事故直前」の解説
1945年8月15日に日本が降伏し、第二次世界大戦は終結した。連合国福岡地区占領軍は添田警察署と責任者で山田填薬所長だった陸軍少佐に対して火薬類の引き渡しを指示したため、陸軍少佐は8月30日までに在庫確認したが、それによると二又トンネルには532,185キログラムの火薬及び爆弾の信管185キログラムが保管されていたという。また地元住民4名が軍属として火薬管理を行っていた。 11月8日、火薬類の品目、数量を記載した「兵器現況表」が添田警察署において警察署長立ち会いのもとで陸軍少佐から占領軍の中尉に手渡され、事実上これをもって火薬類の管理は旧日本陸軍から連合軍に引き渡された。この時陸軍少佐は現地での確認を申し出たが、連合軍は引き渡し以前からこの火薬の隠匿情報を入手していたため、現地にて確認済みとして現地立ち会いは省略された。 それから4日後(事故当日)、連合軍のH・エルトン・ユーイング少尉が下士官2、3名を連れて添田警察署へ向かい、トンネルにある火薬を焼却処分するから警察官3人と作業人夫10人を差し出すように命令した。添田警察署からは警部補、巡査部長、巡査2人の計4人が同行した。 一行はまず吉木トンネルに到着。少尉は火薬を焼却しても危険性がないとして、先に試験的に爆薬に点火し爆発しないことを確認した上で、警察官たちに焼却処分しても危険性のないことを説明して、警察官たちがその旨を付近住民に伝えた。そして保管していた火薬を長さ20メートル、幅1メートルほど散布してこれを導火線とし、その末端に粉末1塊を置いた後、点火前に付近住民を避難させた。13時に下士官が点火、その後しばらく様子を見守っていたが爆発の可能性はないものとして13時30分ごろ吉木トンネルを離れ、14時ごろ二又トンネルに到着した。 点火時刻を15時と決めた連合軍一行は吉木トンネルと同様に、トンネルの北側入口(彦山駅側)から約10メートル程離れたところから導火線を作り、全員をトンネルから100メートル北方へ避難させ、15時ごろに下士官が導火線に点火した。様子を見守っていた連合軍兵士一行はこちらも爆発の可能性はないとして、巡査部長に後を託して15時30分ごろにジープで基地へ引き揚げた。巡査部長はトンネル付近に住民が近寄らないように見張りを立たせていたが、点火から約2時間後、事故が起こった。
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