戦後の活動と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 09:24 UTC 版)
戦後、1947年(昭和22年)に役場を退職し、一座を組んで各地を巡業するようになった。1964(昭和39)年には軽い脳溢血で倒れたが、再起し、酒とタバコを禁じ、克己節制の生活で歌手としての生命を保った。巡業日誌によれば、1966(昭和41)年までの20年間に、1394日間舞台に立っている。舞台では、民謡のほか、鼓の擬音入り秋田万才の一人芸や時事唄い込みのアホダラ経、手品、漫談をとりまぜ、遊芸とされていた「秋田音頭」「コッカラ舞」「しゃくし舞」なども載せた。このころ、八郎潟伝説を一から十まで数え唄にした「八郎節」を完成させている。 昭和46年に秋田文化功労賞を贈られる。大正13年に五城目町で森鈴会を結成、県内各地に支部を置き、民謡の普及と後進の育成に努力したこと、特に、当地に伝えられる難渋な追分節と江差追分などを取り入れた「秋田追分」を生み、発表するなど、多くの秋田民謡を全国に紹介し、後継者の育成に貢献したことが理由とされる。 後年は日本民謡協会秋田県支部長なども務めたが、家業の農業を離れることはなく、秋田県民謡界でも孤高の存在であった。 1963年(昭和38年)5月1日に五城目町の雀館公園に森鈴の民謡碑が建てられ、当時の秋田県知事小畑勇二郎の揮毫で「八郎節」が刻まれている。 満80歳になる10日前の昭和54年(1979)3月8日に死去。
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