戦後の治水〜ダムと放水路〜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 14:11 UTC 版)
「信濃川」の記事における「戦後の治水〜ダムと放水路〜」の解説
1948年(昭和23年)からは千曲川第二期補修事業が建設省(現・国土交通省北陸地方整備局)の手によって着手され現在も進行中である。 しかし、数年に一度は洪水による被害を流域は受けており、根本的な治水対策としてダムによる洪水調節が図られた。信濃川水系においては建設省直轄事業よりも先に新潟県・長野県による県営ダム事業が推進され、裾花ダム(裾花川)、笠堀ダム(笠堀川)などが建設された。建設省は1960年(昭和35年)に関屋分水路の建設を計画したが、1964年(昭和39年)の新潟地震によって新潟市内が広範囲にわたり浸水したことから鳥屋野潟の排水計画に着手した。 この後、黒川放水路が1969年(昭和44年)に完成。関屋分水路は1972年(昭和47年)に通水し、蒲原大堰・中の口川水門も建設が開始された。 だが1969年8月の集中豪雨は流域に大きな被害をもたらし、対策として建設省は1974年(昭和49年)、「信濃川水系工事実施基本計画」を改定。この中で多目的ダムの建設を計画し、大町ダム(高瀬川)が1986年(昭和61年)に、三国川ダム(三国川)が1993年(平成5年)に完成した。 県営でも大谷ダム(五十嵐川)や破間川ダム(破間川)が新潟県に、奈良井ダム(奈良井川)や奥裾花ダム(裾花川)が長野県に完成した。又、人口が急増している長岡市に上水道を供給するため妙見堰(信濃川)が1990年(平成2年)に完成している。 治水整備は進められている一方、その後も水害は繰り返し起こり、2004年(平成16年)には平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)が三条市・見附市等に被害をもたらした。 この様に古来より洪水と治水は「いたちごっこ」の状況で、信濃川の治水の難しさを物語っている。2010年代に入ってもダムの建設は進められ、広神ダム(和田川。2011年竣工)、晒川ダム(晒川。2012年中止)などが挙げられる。 前述の令和元年東日本台風(台風19号)による被害を受けて、2020年代にかけて『信濃川水系緊急治水対策プロジェクト』が進められている。
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