戦後の汚染
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:36 UTC 版)
第二次世界大戦後、大規模な人口の増加、インフラ建設、マニラ郊外への経済活動の分散などがパシッグ川に対する軽視を引き起こした。貧困に悩む農村部からマニラ首都圏に人口が流入し、その多くが河岸のバラックに住みついた。1950年にはフィリピン国会が土地利用や汚染に関する条項を含んだ民法を制定したが、この法律は戦後のマニラの劇的な都市化には無力だった。マニラ首都圏の工業化や都市化が引き起こした人口流入によって、パシッグ川は巨大な下水道と化した。川面には油膜が浮かび、不快な臭いが発生し、水の色は濁り、浮遊物や排泄物が流れた。重金属、殺虫剤、硝酸塩、リン酸塩などが溶け込み、水質を悪化させて河川の生態系を狂わせた。工業化によってパシッグ川は深刻な汚染状態となった。 バエ湖からの魚類の回遊が減少したことで、1930年代にはすでに河川の汚染に気付いていた者もいた。1960年代には河岸の住民が河川の水を洗濯に使用しなくなり、渡し船の輸送量が減少した。1970年代までには不快な臭いを発するようになり、1980年代にはパシッグ川での漁業が禁止された。1990年代までには生物学的に「死に川」となった。1986年の洪水ではマニラ首都圏全体が水に浸り、一部の地域では浸水量が2.1メートルもの高さに達したが、これは古い排水設備と目詰まりが原因だった。第二次世界大戦後に深刻な汚染状態となる前、パシッグ川には魚類25種と植物13種が生息していたが、今日では魚類6種と植物2種が残っているのみである。
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