戦後の武装親衛隊ワロン人義勇兵
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「戦後の武装親衛隊ワロン人義勇兵」の解説
1945年6月中旬、1ヵ月前にシュヴェリーンでアメリカ軍に降伏した「ヴァロニェン」師団の生存者たちはイギリス軍に引き渡された後、ノイエンガンメ強制収容所の跡地に設けられた捕虜収容所に送られ、階級ごとに選別された。数週間後、彼らをベルギー本国へ送還し、対独協力者として裁くための車列が到着した。 第二次世界大戦中のドイツ国防軍、次いで武装親衛隊のワロン人部隊に所属したすべてのワロン人将校の末路は次の通り。 戦時中 東部戦線で戦死(もしくは行方不明):26名 戦後 死刑:48名(欠席裁判での死刑19名、終身刑26名) 懲役20年:23名 拘留10~20年:9名 禁固5年:1名 不起訴:1名このうち、1945~1948年に自殺もしくは病死:5名 1948年6月21日、かつての第373ワロン歩兵大隊の2代目指揮官、ピエール・ポーリー大尉の銃殺刑が執行された。ただし、その理由はポーリーがドイツ軍に所属したからではなく、1944年8月18日にベルギーのクールセル(Courcele)で発生した民間人(レジスタンスのメンバー)虐殺事件に加担したからであった。 1948年11月6日、有罪判決を受けたワロン人将校のうち、35名が釈放された。 1952年、ベルギー当局に逮捕されていたすべての武装親衛隊ワロン人義勇兵(ただし、ドイツ軍の占領期間中にベルギー国内で犯罪を行った1名および「ヴァロニェン」師団参謀長フランス・エレボSS少佐を除く)が釈放された。 第二次世界大戦後のベルギー国内で、大戦中に武装親衛隊フラマン人義勇兵として戦った者たちは1960年代より様々な書籍を出版したり、互助会を結成したりするなどの活動を行った。彼らはフランデレン地域の一部の住民から大戦の英雄と見なされているのに対し、大戦中に武装親衛隊ワロン人義勇兵として戦った者たちは戦後のワロン地域社会から疎外され、出版事業も互助会活動も行うことはできなかった。
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