戦後の沖大東島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 01:31 UTC 版)
戦後、沖縄を統治した米軍軍政は、肥料となるリン鉱石を産出する沖大東島、北大東島を擁する大東諸島に着目し、「沖縄の宝庫」の筆頭に位置付けていた。1946年6月、米軍軍政当局は大東諸島に沖大東島、北大東島のリン鉱石調査を名目とした調査団を派遣した。 リン鉱石の調査が目的とされた調査団であったが、実際には大東諸島の政治行政、経済面の多岐に渡っての調査を行った。この調査中の1946年6月12日、沖縄民政府の指示により大東諸島に村制が施行された。大東諸島の村制施行に伴って沖大東島は北大東村に属することになった。なぜ北大東村に属することになったかについては資料が残っていないが、地理的な観点からではなく産業面、すなわちリン鉱石の産地である北大東島、沖大東島とも、リン鉱石資源再開発を行うことを考慮したものと推測されている。なお、沖縄返還後の1973年8月18日、沖大東島は北大東村字ラサと字の区域設定が行われた。 1950年の朝鮮戦争開戦後、鉄くず需要が高まる中で沖大東島に、放棄されたラサ島鉱業所の機械類やレール、そしてラサ島守備隊が残したスクラップ類を回収するため、スクラップ業者がやって来るようになった。1954年にはスクラップ回収のために沖大東島に向かった12名の労働者が、派遣先の経営不振のため迎えの船を出せずに置き去りにされた事件が起きている。
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