ラサ島守備隊
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1935年9月から1938年4月まで、海軍水路部の移動観測班が南大東島で気象観測を行った。その結果、大東諸島での気象観測の重要性が認められて、1938年には南大東島と沖大東島に気象観測所の新設が決定された。1940年1月、中央気象台が管轄する沖大東測候所が開設された。1942年8月には海軍の望楼が建設され、海軍軍人8名と観測員9名が常駐するようになる。その後沖大東島の海軍兵力として1944年11月には見張要員29名と他の任務を担う2名の計31名が新たに来島した。 大本営は大東諸島を軍事的要衝と判断して防衛体制の強化を図った。1944年3月24日、大本営は第85兵站警備隊を歩兵第36連隊に編入の上、大東諸島への展開を命じた。南大東島には歩兵第36連隊の連隊本部と第1、第3大隊、大東島支隊。北大東島には第2大隊。そして沖大東島には第4中隊が配備されることになった。 1944年2月25日、沖大東島はアメリカ軍による艦砲射撃の攻撃を受けた。4月16日には荷役作業中の船が潜水艦による攻撃を受け、ほぼ全乗組員が死亡する。そのような緊迫した情勢下、4月26日に陸軍のラサ島守備隊が上陸した。 進駐してきたラサ島守備隊は、ラサ島鉱業所の全面的なバックアップのもとで強固な陣地を造り上げていった。9月29日には初の空襲を受け、危険性が高まる中で、4月以降始まっていたラサ島鉱業所の従業員の順次退島に拍車がかかることになった。 リン鉱石を採掘するラサ島鉱業所は食糧増産の鍵であり、全面撤退の決定はなかなか下りなかった。しかしラサ島のリン鉱石は品位が低下していて外国産の優良な鉱石と混ぜなければ利用できず、しかも海上輸送が困難となったために島内には採掘された鉱石が貯まってこれ以上貯鉱が出来ない状況となっており、結局1944年末に全面撤退の決定が下りた。1945年1月22日、ラサ島鉱業所の従業員は全員沖大東島を離島して、ラサ島鉱業所は閉山となった。 ラサ島鉱業所の閉鎖後、アメリカ軍は艦砲射撃や空襲を加えてきた。3月11日には補給船が来島したが、その補給船が最後となり、終戦後まで補給は完全に絶たれた。補給が断たれた後、ラサ島守備隊はサツマイモの栽培や魚を獲るなどして持久作戦を取ることになった。 その後も米軍による空襲は断続的に続けられた。米軍が投下した不発弾を海中で爆破して魚を気絶させる漁は、守備隊員たちから「トルーマン給与」と呼ばれるようになった。補給が断たれる中、何とか持久作戦を続けてきた守備隊であったが、8月頃には脚気患者が増え始めていた。 8月15日の終戦後、25日になって正式な降伏命令がラサ島守備隊のもとに届けられた。10月12日には米軍が沖大東島に上陸し、武装解除、そして10月14日にはラサ島守備隊は撤収した。ラサ島守備隊員の戦死者は7名であった。撤収後、沖大東島はラサ島鉱業所の操業開始以前の無人島に戻った。
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