ラサ島守備隊とは? わかりやすく解説

ラサ島守備隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 01:31 UTC 版)

沖大東島」の記事における「ラサ島守備隊」の解説

1935年9月から1938年4月まで、海軍水路部移動観測班が南大東島気象観測行ったその結果大東諸島での気象観測重要性認められて、1938年には南大東島沖大東島気象観測所新設決定された。1940年1月中央気象台管轄する沖大測候所開設された。1942年8月には海軍望楼建設され海軍軍人8名と観測員9名が常駐するうになるその後沖大東島海軍兵力として1944年11月には見張要員29名と他の任務を担う2名の計31名が新たに来島した。 大本営大東諸島軍事的要衝判断して防衛体制強化図った1944年3月24日大本営は第85兵站警備隊歩兵第36連隊編入の上大東諸島への展開を命じた南大東島には歩兵第36連隊連隊本部と第1、第3大隊大東島支隊北大東島には第2大隊。そして沖大東島には第4中隊配備されることになった1944年2月25日沖大東島アメリカ軍による艦砲射撃攻撃受けた4月16日には荷役作業中の船が潜水艦による攻撃を受け、ほぼ全乗組員死亡するそのような緊迫した情勢下、4月26日陸軍のラサ島守備隊が上陸した進駐してきたラサ島守備隊は、ラサ島鉱業所全面的なバックアップのもとで強固な陣地造り上げていった。9月29日には初の空襲を受け、危険性が高まる中で、4月以降始まっていたラサ島鉱業所従業員順次退島に拍車がかかることになったリン鉱石採掘するラサ島鉱業所食糧増産の鍵であり、全面撤退決定はなかなか下りなかった。しかしラサ島リン鉱石品位低下していて外国産の優良な鉱石混ぜなければ利用できず、しかも海上輸送が困難となったために島内には採掘され鉱石が貯まってこれ以上貯鉱が出来ない状況となっており、結局1944年末に全面撤退決定下りた1945年1月22日ラサ島鉱業所従業員全員沖大東島離島して、ラサ島鉱業所閉山となったラサ島鉱業所閉鎖後アメリカ軍艦砲射撃空襲加えてきた。3月11日には補給船が来島したが、その補給船が最後となり、終戦後まで補給は完全に絶たれた。補給断たれた後、ラサ島守備隊はサツマイモの栽培獲るなどして持久作戦を取ることになったその後米軍による空襲断続的に続けられた。米軍投下した不発弾海中爆破して気絶させる漁は、守備隊たちからトルーマン給与」と呼ばれるようになった補給断たれる中、何とか持久作戦続けてきた守備隊であったが、8月頃には脚気患者増え始めていた。 8月15日終戦後25日になって正式な降伏命令がラサ島守備隊のもとに届けられた。10月12日には米軍沖大東島上陸し武装解除、そして10月14日にはラサ島守備隊は撤収した。ラサ島守備隊員の戦死者は7名であった撤収後沖大東島ラサ島鉱業所操業開始以前無人島戻った

※この「ラサ島守備隊」の解説は、「沖大東島」の解説の一部です。
「ラサ島守備隊」を含む「沖大東島」の記事については、「沖大東島」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ラサ島守備隊」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ラサ島守備隊」の関連用語

ラサ島守備隊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ラサ島守備隊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの沖大東島 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS