ラサ島鉱業所の再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:15 UTC 版)
恒藤が退陣した後、1930年5月には代表取締役の小野義夫が社の実権を掌握した。小野は事業の整理縮小と再構成、そして債務整理に辣腕を振るい、1933年までには債務整理をほぼ完了させた。同じ頃、戦時体制が強化されていく中で長年続いた不況から日本経済は復活していった。そして景気が回復していくにつれてリン酸肥料の消費量が増大していき、リン鉱石の需要も増え始めた。しかも1931年の満州事変後は国際情勢の不透明感が増してリン鉱石の輸入に不安感も出ていた。債務整理をほぼ完了させ、会社の体質改善に成功したラサ島燐礦株式会社は、1933年にラサ島鉱業所の操業再開を決断する。 操業再開に当たってはまずラサ島の現状把握が必要不可欠だった。1933年3月、調査隊が派遣され、約2週間施設の状況やリン鉱石の埋蔵量を調査した。リン鉱石はラサ島内に約5000トンの保管中の鉱石があり、また第一種リン鉱石約10万トン、第二種リン鉱石(リン土)約50万トンの埋蔵を確認して、採算が取れると判断した。各施設については破損状況を把握し、修繕方法についても検討した。 6月末には操業開始のため、資材や機器、そして職員、鉱夫をラサ島に派遣した。なお派遣された鉱夫のうち約300名は沖縄県内で募集、採用され、那覇から合流してラサ島に向かった。5年近く放置され破損していた各施設の復旧は、1934年2月頃までかかった。復旧が終わり、月2000トン以上の採鉱体制が確立されてラサ島鉱業所は本格操業再開となった。 操業再開後のラサ島鉱業所で、再開前と大きく変わったのが女性、子どもの在島が認められたことであった。これは1933年までの男性のみの就労形態ではやはり労働者同士のケンカやいざこざが絶えず、また労働者の定着率も悪く、会社としても夫婦でのラサ島出稼ぎを進めることにしたためであった。また出稼ぎ労働者としてラサ島で働くことを希望する男性労働者が減少して採用が難しくなってきたため、女性の労働力に期待せざるを得なくなったことも原因であった。 夫婦、子どもが在島するようになって教育機関が新たに必要となった。ラサ島には小学校があったとの証言があり、生徒が少なかったときは教師1名で、増加してくると教師夫婦2名で教えていたというが、具体的な記録は残っていない。また小学校の他に青年学校もあったとの証言がある。
※この「ラサ島鉱業所の再開」の解説は、「ラサ島鉱業所」の解説の一部です。
「ラサ島鉱業所の再開」を含む「ラサ島鉱業所」の記事については、「ラサ島鉱業所」の概要を参照ください。
- ラサ島鉱業所の再開のページへのリンク