ラサ市内での暴動
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「2008年のチベット騒乱」の記事における「ラサ市内での暴動」の解説
ラサ市内での暴動発生原因として、チベット亡命政府内の急進独立派であるチベット青年会議(TYC・藏青会)と、これを支援する国境無き記者団などの欧米の支援団体は、2008年8月の北京五輪を前に、中国政府が強硬な鎮圧に出られない事を見越して、チベット独立を求める大規模なデモをラサ市で実行し、これにチベット亡命政府に好感を持っている複数のジャーナリストをアテンド取材させてチベット問題への国際的な注目を集める事を企画していた事が知られている[要出典]。 最初の動きはチベット自治区のラサ市において、1959年のチベット蜂起から49年目に当たる2008年3月10日に合わせて開始された。当初チベット亡命政府はラサ市で行われたのは平和的なデモだったと主張しており、ダライ・ラマ14世もこれに理解を示す声明を出していたが、英エコノミスト紙のジェームズ・マイルズ記者の「私がラサで見たのは、計画的で特定の民族グループを標的とした暴力であり、その対象とされた民族グループは、ラサで最も人口の多い漢族と、少数派の回族だった」との証言 から計画的な暴動であったことが明らかとなった。暴徒達が長剣やナイフで武装して銀行、漢族や回族の商店を襲撃して略奪・放火・暴行を行う様子はCCTVを通じて世界中に配信されると、当初は”デモ”に対して好意的な報道を行っていたBBCも一変して”暴動”を批判する報道を行うようになった。 マイルズ記者が事態を目撃していた事が3月19日に明らかになると、ダライ・ラマ14世は「暴徒は中国兵が僧侶に変装したもの」 と主張を一変し、チベットの運動家はその証拠写真として中国軍兵士が僧侶に変装しているような様子の写真を提示した。しかしこの写真はすぐに映画の一シーンの抜き出しであることが明らかになった。 チベット亡命政府から正確な情報を伝えられていなかった事に気付いたダライ・ラマ14世は、米国への訪問時にシアトルの地元新聞社とのインタビューで、今回の暴動はチベット亡命政府内の“若者達”が自らの中道路線に不満を持ち、これが暴走した結果という見解を示し、中国側の発表した暴動とチベット青年会議との関係を認め、以降は一転して暴力に反対する意を示した。 現地の目撃者の女性は、ラサにある小さな寺院の付近で、警官によりデモを停止された後に、僧侶らがパトカーに放火したと述べた。「僧侶らはまだ抵抗を続けている。パトカーと軍用車両が燃やされた。泣き叫んでいる人々がいる」と述べた。 これらの暴動が過激化したため、3月16日までに武警・公安部隊が催涙ガス やゴム弾など非致死性兵器を使用して暴徒を解散させた。 中国政府は、暴徒が多数の僧侶に扇動されていると考え、ラサ市内にある3箇所の大僧院を封鎖し僧侶達を幽閉し、3月17日に街頭スピーカーから暴動参加者へ対する、自首による罪の減免措置が通告され、多くの者はこれに応じて自主的に公安局へ出頭し、暴動は市街の多くを破壊して終焉した。
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