ラサ島鉱業所操業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:13 UTC 版)
水谷新六はリン資源開発、確保をライフワークとしていた恒藤規隆から沖大東島の岩石や土砂の入手を依頼されていた。恒藤はリン資源発見を目指して全国各地を調査していた。その中で1902年に部下を南鳥島に派遣して、高品位のグアノを発見していた。 南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていた水谷新六は、グアノの発見後、グアノ採掘へと事業転換する。採掘されたグアノは全国肥料取次所で肥料として製造販売した。全国肥料取次所で技術指導を行っていたのが恒藤であった。南鳥島でのグアノ発見、全国肥料取次所での肥料製造などを通じて恒藤は水谷新六と知り合った。南鳥島でのグアノ発見以後、南方の島々でのリン資源探査に意欲を高めていた恒藤は、水谷が南方の島々でしばしば鳥類の捕獲を行っていることを知り、捕鳥のついでに岩石を持って帰るよう依頼していた。中でも強い興味を持ったのが沖大東島であった。水谷から沖大東島の話を聞くと、機会があったら岩石や土砂を持ち帰って来るように頼んでいた。 水谷の甥は股引に沖大東島の石を入れて持ち帰った。恒藤は沖大東島の石を一目見てリン鉱石であると判断した。ラサ島でのリン鉱石発見後、恒藤の他、肥料商の九鬼紋七、沖大東島の開発権を握っていた玉置半右衛門、そして水谷新六が鉱業権を主張した。さらに1909年には東沙諸島の開発から撤退した西沢吉治が沖大東島開発に乗り出そうと画策するなど泥沼の争いとなった。 そのような中で恒藤は1907年8月に沖大東島へリン鉱石の資源調査団を派遣し、1910年10月には日本産業商会を設立して理事長に就任する。そして日本産業商会設立直後の11月には第二回の資源調査隊を派遣した。 国内での権利問題が解決しない中、沖大東島のリン資源に外国資本が食指を伸ばしだした。外圧を背景に恒藤は権利獲得に奔走し、1911年初頭に沖大東島の開発権の掌握に成功する。2月28日にはラサ島燐鉱合資会社を設立して社長に就任する。社長就任後の4月、恒藤は自らが陣頭指揮を執って沖大東島に第三回の資源探査を行った。探査の結果、予想を上回る有望なリン鉱石鉱床を確認したため、5月1日にラサ島鉱業所を創業した。
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