沖縄民政府
沖縄民政府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:25 UTC 版)
1946年10月、軍政府は具志川村栄野比(現うるま市栄野比)から玉城村親慶原(現南城市)の知念補給地区へ移転した。それに付随し、4月24日に石川市東恩納で発足したばかりの沖縄民政府も親慶原高台にある新里通信所へ移転した。 1949年7月23日、グロリア台風で全壊し、これを機に沖縄民政府は米国軍政府のグリーン副長官に那覇への移転を再三にわたり折衝。翌年3月までの期限として、完成したばかりの旧上山国民学校の校舎に移転許可をとりつけた。沖縄民政府がまず那覇市久米の旧上山国民学校(元那覇尋常小学校)に移転し、またすぐに隣接する旧天妃国民学校に移転。それに伴い、米軍政府が12月に那覇市久米の旧上山国民学校に移転し、軍政府長官シーツ少将が那覇市が沖縄の首都となることを発表した。1950年12月15日、軍政府の名前が廃止され、米国民政府となり、長期的統治の段階にむかう。
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