沖縄水産高校野球部監督・栽弘義への思い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 20:24 UTC 版)
「大野倫」の記事における「沖縄水産高校野球部監督・栽弘義への思い」の解説
大野が高校卒業後の1993年(当時・九州共立大学在学中)に二宮清純の取材を受けたときには、「いつか監督を殺してやる。毎日そればっかり考えていました。1日として監督を恨まない日はなかった。高校野球の思い出といっても辛いものばかり…。残念なことに3年間の高校生活で楽しいと思ったことは一度もなかったですね」と答えた。また、監督の叱声以上に、県予選で肘をかばって変化球を多投した時にチームメイトに「オマエのせいで甲子園行けんかったら、一生恨んでやるからな」と罵倒されたことにショックを受けたという。 しかし、栽の死後である2010年に受けた取材では、大野は大阪桐蔭高校との決勝戦敗退に関して、「悔しさは全く無く『やっと終わった』という安堵感が強かった」と述べていた。右肘の痛みに耐えながら決勝戦まで一人で投げ続けた事に関しては「これは僕と栽監督の信頼関係で成り立った話なので」と栽に対して批判する気持ちは持っておらず、さらに「栽監督がもし勝負師に徹していたのならば、(優勝するために)スパッと切って投げさせなかったと思う」とコメントしている。そして「栽監督が『ここまで来たのだから、勝ち負けに拘らず最後まで行こう』と(大野に)温情を入れてしまい、栽監督が『栽先生』になったから、全国制覇を逃してしまったのかも」と述懐していた。 また、2016年2月に東京スポーツの取材を受けた際に、前述の1993年の二宮の取材での「殺してやる」発言の件について「記事が独り歩きしてしまった。栽先生に矛先が向いてしまい、本当に申し訳なかった」「あれは記者の捏造。作り話です」「『当時こう思ったことはなかった?』と乗せられて、まるでそれが本心みたいに書かれてしまった。書いたやつこそ“いつか”って思ってます。まあ、冗談ですけど(笑い)」と否定した。また、「記事が出たとき、周囲からは散々怒られました。でも栽先生だけは『大野がこんなことを言うはずがない』と、はなから信じていなかった。救われましたね」とも振り返った。
※この「沖縄水産高校野球部監督・栽弘義への思い」の解説は、「大野倫」の解説の一部です。
「沖縄水産高校野球部監督・栽弘義への思い」を含む「大野倫」の記事については、「大野倫」の概要を参照ください。
- 沖縄水産高校野球部監督・栽弘義への思いのページへのリンク