フルシチョフ報告の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 23:30 UTC 版)
「スターリン批判」の記事における「フルシチョフ報告の経緯」の解説
ポスペーロフ委員会による調査報告は、ソ連共産党第20回大会を直前に控えた1956年2月9日に中央委員会幹部会で行われた。同報告は国家保安委員会(КГБ)の資料に基づいて、(1) 1935〜40年のあいだに1,548,366名が逮捕され、688,503名が銃殺されたこと、(2) 粛清は共産党・国家機関・地方機関・経済組織・軍・内務人民委員部などの指導者層を広く呑み込んだこと、(3) 特に1934年の全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)第17回大会(英語版)で選出された中央委員と同候補139名のうち98名が銃殺され、大会代議員およびオブザーバー1,966名のうち1,108名が逮捕され、うち848名が銃殺されたこと、(4) 処刑された者のなかにはドイツ人・ポーランド人・ラトヴィア人・朝鮮人など多くの外国人が含まれていたこと、(5) 大量逮捕にあたって反ソ団体のでっち上げが行われ、逮捕者には暴行・拷問・脅迫など違法な手段が系統的に用いられたこと、(6) こうした大量抑圧がスターリンの指示・承認のもとに行われていたことを明らかにした。 スターリンによる大粛清の全貌を明らかにしたこの報告は幹部会員に衝撃を与え、フルシチョフやミコヤンは党大会で報告すべきであると主張したが、この時点では誰がどのように報告を行うかは決まっていなかった。大会前日の2月13日に開かれた幹部会で、この問題についての報告をフルシチョフが行うこと、この報告を大会の秘密会で行うことを決定した。同日に行われた中央委員会総会は、内容が伏せられたうえでフルシチョフ報告が行われることを承認した。このように、フルシチョフ報告は大会の直前になって行うことが決められたのである。秘密報告の文案づくりは大会会期中に行われ、まずポスペーロフが下書きし、これにフルシチョフが口述筆記で補足し、ドミトリー・シェピーロフ(モロトフに代わる新外相)やミハイル・スースロフ(党幹部会員)が加筆・修正し、報告2日前の2月23日に完成し幹部会員に回覧された。
※この「フルシチョフ報告の経緯」の解説は、「スターリン批判」の解説の一部です。
「フルシチョフ報告の経緯」を含む「スターリン批判」の記事については、「スターリン批判」の概要を参照ください。
- フルシチョフ報告の経緯のページへのリンク