フルシチョフの書簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:11 UTC 版)
一方ソ連ではフルシチョフが2通の書簡を送付した。1つはケネディ大統領宛てで「平和への重大な脅威であり、海上封鎖は国際法の重大な違反行為でアメリカは壊滅的結果を招く可能性がある」として激しく非難した。ケネディ宛ての書簡はこれ以降キューバ危機の間に10通以上が届いた。この時代、現在のように米ソ間にホットラインはなく首脳同士が直接対話することは出来なかった。このキューバ危機をきっかけに米ソ間でホットラインが設置されて、初めて両国の首脳による電話での会談がいつでも行えるようになった。 このフルシチョフからのケネディ宛ての書簡に対して、ケネディは返書を送り秘密裡にキューバに攻撃用ミサイルを与えたことで海上「隔離」を行ったことを確認して「理性を持って状況を管理不能な状態にしてはならない」と要望した。この後に大統領はロバートに秘密裡にドブルイニン大使と会ってソ連の行動は間違っていることを伝えさせた。この時ドブルイニンは「隔離は受け入れられない。封鎖は突破する」とロバートに答えたという。 もう1つのフルシチョフ書簡はカストロ宛てで「ソ連は引き下がることはない」と確約した。キューバは最高レベルの警戒態勢に入り、東部にラウル・カストロを、西部にチェ・ゲバラを派遣して防衛準備を仕切らせた。そして3日間で30万人以上のキューバ人が武装し最悪の事態に備えた。 著名な哲学者であったバートランド・ラッセルはケネディに「貴下の行為は無謀で正当化の余地がない」と電報を送り、フルシチョフには「貴下の忍耐こそ我々の希望である」と打電している。
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フルシチョフの書簡
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10月26日の朝、フルシチョフに、アメリカからの情報として、米空軍戦略航空軍団に史上初めて警戒レベルDEFCON2の防衛準備態勢に入るように命じられたとの報告をKGBから受けた。この時にフルシチョフはもはや待つ余裕はなくなったと腹を決めて、ケネディ宛てに書簡を送ることとした。それはミサイル撤去についての提案であった。 「あなたから10月25日付けの書簡を受け取りました。あなたが事態の進展をある程度理解しており、責任感も備えていると感じました。私はこの点を評価しています。…世界の安全を本当に心配しておられるのであれば私のことを理解してくださるでしょう…私はこれまで2つの戦争に参加しました…至るところ死を広め尽くして初めて戦争は終わるものだということを知っています…ですから政治家としてふさわしい英知をみせようではありませんか…今戦争というロープの結び目を引っ張り合うべきではありません…強く引っ張り合えば結んだ本人さえ解けず…それが何を意味するか申し上げるまでもありません」 この書簡は送信に手間取りこの日の夜、ワシントンに届いた。この時まで実務的に米ソ間でミサイル撤去交渉というものがあったことはない。この時代のこの段階ではおよそ無理な話であって、最高指導者の間でのやり取りで決定せざるを得ないものであった。この意味で10月26日から28日までの間のケネディとフルシチョフとの息詰まるやり取りはこの2人の指導者が冷静に相手の真意を探り合うものであった。 10月26日に届いた書簡は、ミサイルをキューバに置いたのはキューバを侵攻から守るためで、もしアメリカがキューバを攻撃・侵攻しないと約束すれば、国連の監視下でミサイルを撤去するという旨の内容であった。この内容の書簡はウ・タント国連事務総長代行にもゾーリン国連大使から届けられている。 そしてもう一つ非公式なルートでソ連大使館員でKGB担当者でもあるアルクサンドル・ファーミン(フェクリソフ)がABCテレビの特派員であったジョン・スカーリに電話をかけて二人はレストランで会い、昼食を取りながら、ソ連がミサイルを撤去する代わりに、封鎖を解除して、今後キューバへ侵攻しないとの取り決めを行うことにケネディ政権は関心があるだろうか、と尋ねてケネディ政権の意向を探ってほしいと依頼している。スカーリは国務省にすぐに伝え国務省はすぐにエクスコムに伝えた。そしてこの日の夜7時半ごろに二人は再び会い、スカーリは「政府内の最高首脳レベル」 から承認を受けてアメリカはその提案に関心があると伝えるように言われたとファーミン(フェクリソフ)に伝えた。
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フルシチョフの書簡
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この日の朝、モスクワではフルシチョフはにわかに自信を深めつつあった。封鎖宣言から5日過ぎてもアメリカは攻めてこない、ミサイル撤去の条件にキューバを侵攻しない約束以上の譲歩もアメリカは考えているとの感触を得ていた。当時アメリカで著名な評論家であったウォルター・リップマンが25日の新聞コラムで《キューバのミサイル》と《トルコのミサイル》とを「体面を保ちつつ」取り引きするのはどうかと論じていたのである。リップマンがケネディ政権の意思を代弁していたのかどうかは明らかではないが、フルシチョフはアメリカの柔軟な対応を示唆するものと感じ取った。そして「トルコの米軍基地の清算まで達成できれば我々の勝ちだ」と語った。早速昨日とは著しく内容を異にする書簡を準備し、前日送信に手間取って遅くになったことを考えてモスクワ放送で公表した。 そしてワシントン時間でこの日の午前中に新たなフルシチョフの書簡の内容がラジオを通じてエクスコム会議に入って来た。前日の内容に全く触れずにトルコにあるミサイルの撤去を交換条件として要求してきたのである。これを聞いたワシントンでは前日届いた書簡が柔軟な内容であったのに、朝にラジオで聞いた今回の書簡の内容が強硬であったので戸惑っていた。これは東西対立の厳しい状況の中でヨーロッパでは東欧の共産圏があって、ソ連にとっては東欧が緩衝地帯で直接アメリカの核ミサイルが脅威ではなかった。しかしトルコはソ連と境界を接し、トルコ国内の核ミサイルが直接ソ連領内に向けられているので、この時代のソ連はトルコのアメリカ軍のミサイルは脅威であった。 前年のベルリン危機でも、アメリカはトルコがソ連の攻撃目標になることを常に念頭に入れなければならない状況であった。但し1960年代に入ってトルコに配備しているミサイルはすでに旧型であり、アメリカでは原潜などに移動型ミサイルの配備が進み、さらに米ソ間のミサイルの保有数で圧倒的にアメリカが優位であり、必ずしも核ミサイルの固定基地が絶対必要という時代ではもうなかったが、簡単に撤去を了解するとソ連の圧力に屈したことを印象づけ、他の同盟国との信頼が低下することをケネディは懸念していた。
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