フルシチョフ失脚後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 03:05 UTC 版)
1960年にヴォロシーロフの辞任にともないブレジネフが最高会議幹部会議長に就任した。ブレジネフは1963年にはフルシチョフの後継者とされたフロル・コズロフの後任として第二書記も兼ねたが、間もなく最高会議幹部会議長は長老派のミコヤンに譲らされる。ブレジネフは表向きはフルシチョフに忠実であったが裏では他の政治局員とともにフルシチョフ追放を画策する。1964年10月にフルシチョフを失脚させると第一書記に就任、最高会議幹部会議長はミコヤンが続投、首相にはコスイギンが就任し、トロイカ体制が復活する。しかしフルシチョフに近すぎたミコヤンはブレジネフに疎まれ翌1965年12月には辞任した。(政治局から改編された幹部会会員には1966年4月まで留まる)ミコヤン辞任後はポドゴルヌイが最高会議幹部会議長に就任した。 ブレジネフは1966年に第一書記という呼称をスターリン時代の書記長に戻す。権力の集中強化に努めたブレジネフは1977年にポドゴルヌイを追い落とし最高会幹部会議議長に就任、書記長と兼務した。ブレジネフの書記長、最高会幹部会議議長の兼任によりトロイカ体制は名実ともに終わりを告げた。
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