シャーリー・ファン
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「シャーリー・テンプル」の記事における「シャーリー・ファン」の解説
母ガートルードが「シャーリー・テンプルは子供たちのもの」と1930年代に言った通り、ファンの中心は子供、特に少女たちであり、次いで母親たちが魅了される。圧倒的に女性ファンが多く世界的な社会現象にさえなった少女スターであり、世界中に様々なファン層が存在した。 最も有名なファンは政治家たち、わけても1920年代初頭のチリ大統領アルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマ (スペイン語 Arturo Puga) であろう。大統領官邸にシャーリー・テンプルの映画フィルムをすべて揃えて毎日繰り返し見ていた。職権でシャーリーをチリ海軍の公式マスコットに任命、大統領専属のデザイナーをハリウッドに送って彼女の採寸をさせると海軍提督の正装を仕立てさせ、さらにアメリカ合衆国に外交使節団を派遣して9歳のシャーリーに贈った。 1950年代から1960年代にソビエト連邦の最高指導者だったフルシチョフは、テンプルの熱心なファンだった。アメリカとの雪解けが始まった1960年9月に訪米、誰に会いたいかと尋ねられるとシャーリー・テンプルと答えた。そこでサンフランシスコを訪問した際、アメリカ政府の高官に混じって32歳の彼女も首相を出迎えた。空港でフルシチョフ首相は初めて会った彼女の手を握り締め、自分の胸に押し当てると目に涙を浮かべた。ただし感極まるあまり「あんたを是非とも拉致してソビエトに連れて戻りたいものだ!」と叫んだため、シャーリーは少なからず驚いたようである。フルシチョフ失脚後の1967年、シャーリー夫妻がソビエトを訪問した際にフルシチョフに再び会いたいとソビエト当局に申し入れたものの拒否されている。 1980年代に入ると、レーガン政権のヘイグ国務長官も熱烈なファンだと公言する。マイケル・ジャクソンもファンだと言い、シャーリーと面会するとひたすら泣きじゃくっていたという。 アメリカには多くのシャーリーのファンあるいはマニアがいる。俳優のジョージ・クルーニーは女優ならシャーリー・テンプルが一番好きだと言い、ライザ・ミネリ一家も自宅の一室をシャーリー・アイテムの部屋にしてシャーリー・テンプル人形をずらりと飾るほどのファンである。女優のナタリー・ポートマンも尊敬する人物に彼女の名を挙げ、もともと自分も政治に大変興味があり女優として活躍した後に政界で働く彼女を尊敬していたという。社会には「シャーリーおたく」と呼ばれ、彼女のアイテムで家を埋め尽くしたり、出演作の登場人物になりきってコスプレをしたりする人たちが現われた。2002年、フォックステレビはオタクの取材を含む1時間番組『シャーリーマニア』 を放映、衰えない人気を証明している。
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