フルシチョフのベルリン非武装自由都市宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
「ヴィリー・ブラント」の記事における「フルシチョフのベルリン非武装自由都市宣言」の解説
そして1958年11月27日にソ連のフルシチョフ首相がベルリンに関する4ヵ国協定の破棄と西ベルリンから西側軍隊の撤退、そしてベルリンの非武装化と自由都市を要求した。ブラントは即日この要求を却下した。(ベルリンの壁#フルシチョフの非武装自由都市化宣言)この直後の西ベルリン市議会選挙で、SPDは52.6%の得票を得たが、惨敗したCDUと西ベルリン市で大連立を組んだ。ブラントはベルリン市民から評価される存在となった。そしてそれは彼が社会民主党(SPD)の新しい希望の星となったことでもあった。1958年12月14日にパリで開かれた北大西洋条約機構(NATO)の理事会の席でベルリンの状況に関して報告を行い、流暢な英語を駆使したこの演説でベルリン市長は国際的な評価を得てその名声と地位を確かなものとなった。
※この「フルシチョフのベルリン非武装自由都市宣言」の解説は、「ヴィリー・ブラント」の解説の一部です。
「フルシチョフのベルリン非武装自由都市宣言」を含む「ヴィリー・ブラント」の記事については、「ヴィリー・ブラント」の概要を参照ください。
- フルシチョフのベルリン非武装自由都市宣言のページへのリンク